環境研究最前線~つくば・国環研からのレポート第20回 ヒ素の発がんメカニズムはどこまでわかってきたか?~エピジェネティクスという新しい視点~

2016年02月15日グローバルネット2016年2月号

地球・人間環境フォーラム
石本 美和

ヒ素は、地球上に広く存在し、単体や無機ヒ素化合物、有機ヒ素化合物として、地殻や水、食べ物などに含まれています。生体に対する有毒性が高く、微量であっても長期間摂取すると皮膚疾患、皮膚や肺、肝臓、膀胱などのがん、心疾患などを引き起こします。  日本では「ヒ素」と聞くと、森永ヒ素ミルク中毒事件(1955年)や和歌山の有毒カレー事件(1998年)などの人為的ミス、あるいは意図的に食品へ加えられたことに起因する中毒を思い起こします。宮崎県の土呂久ヒ素鉱山では、鉱石からの亜ヒ酸の製造によって住民に慢性ヒ素中毒が発症したことが1970年代初めに報告されており、現在も数十名の患者がいます。  

一方、中国・インド・バングラデシュでは地下水に混入した天然由来の無機ヒ素が原因で、それを利用している住民は大きな健康被害を受けています。日本の水道法では、ヒ素およびその化合物の水質基準値は0.01ppm以下ですが、バングラデシュでは高い地域では1ppmも含まれています。  

このようなヒ素の生体への影響を評価するために、毒性メカニズムを研究しているのが国立環境研究所環境健康研究センター主任研究員の鈴木武博氏です。鈴木氏は妊娠中のヒ素曝露が、胎児の成長後の発がんを増加させる現象を、遺伝子発現(遺伝情報が生物の構造や機能に現れること)の観点から解明を進めています。

エピジェネティクスとは

 生物の教科書でDNAは染色体の中に織り込まれていると習いましたが、染色体はヒストンというタンパク質にDNAが巻き付き、それが密に折り畳まれた構造をしています(図1)。従来の遺伝学(ジェネティクス)では、DNA上の塩基の連なりで書かれたDNA配列(命の設計図)に基づいて遺伝情報が発現し、生命現象が営まれています。がん細胞は、何らかの刺激で、DNA配列に変異をきたした細胞で、増え続けることによって生体へ悪影響を及ぼします。無機ヒ素はDNA配列を変異させることなく、遺伝子の発現を変化させることにより、がんの発症に関わっていると考えられています。この現象は遺伝現象の外側で起こる変化であることからエピジェネティクス(「エピ」は追加の意味を持った接頭語)と呼ばれています。  

図1  ジェネティクスとエピジェネティクスによる遺伝情報の発現  ジェネティクスでは、DNA 上の塩基の連なりで書かれたDNA 配列に基づいて遺伝情報が発現するが、エピジェネティクスはメチル化(Me)やアセチル化(Ac)などによって遺伝子の発現が変化する。遺伝情報の発現はジェネティクスとエピジェネティクスの両方で調節される。

エピジェネティクスではDNA配列の変化(例えば、DNA上の塩基を別の塩基に置き換えること)を伴わずに、DNAのメチル化(塩基の一つ、シトシン(C)にメチル基がつく反応)やDNAが巻きついているヒストンタンパク質分子にアセチル化(ヒストンタンパク質を構成しているアミノ酸にアセチル基がつく反応)などといった化学変化が生じることによって遺伝子の発現を変化させます。  

DNAの塩基配列にはCの次にグアニン(G)が続くCGという配列が密に集まって存在する領域があります。この領域が遺伝子の働きを調節する部位にある場合、CG配列のCのメチル化が多いと遺伝子発現が抑制されます。DNA配列上のすべての遺伝子が発現せず、神経細胞や皮膚細胞ごとにその細胞にとって必要な遺伝子が発現するのは、遺伝子の働きを調節する部位でメチル化などのエピジェネティクスが変化しているからです。

無機ヒ素による発がんメカニズムでは、通常はがん抑制遺伝子が発現しているためがん化しないものが、エピジェネティクスが変わることでがん抑制遺伝子の発現が不活性化し、がん化の促進に関与していることなどが考えられています。

妊娠中マウスのヒ素曝露実験

ヒ素は胎盤を通して胎児(胎仔)に移行することが知られており、とくに胎児期は化学物質に対して感受性が高いことが明らかになっています。この時期の曝露がその後の成長に影響を与え、さらに継世代的に影響を及ぼすことも懸念されています。  

約10年前に行われたアメリカの先行研究において、妊娠中のマウスに無機ヒ素を含む水を妊娠8日目から出産するまでの10日間飲ませ、生まれた仔を1年半飼育すると肝臓がんを発症する率が高まることがわかりました。鈴木氏が所属している研究グループは同様のヒ素曝露実験を行い、生まれた仔の肝臓のDNAメチル化を調べました。もともと肝臓がんを発症しやすいマウスの系統を使っているため、無機ヒ素を与えていないマウスの仔(対照群)でも肝臓がんを発症しますが、妊娠期に無機ヒ素を摂取したマウスから生まれた仔(妊娠期ヒ素曝露群)と比較することで、ヒ素曝露によるDNAメチル化の位置を明らかにできます。  

対照群と妊娠期ヒ素曝露群を比較したところ、がん遺伝子として知られているFosb遺伝子領域のメチル化率および遺伝子発現の増加が検出されました(図2)。発がんにはエピジェネティクス以外のさまざまな要因が関わることがわかっていますが、マウスを使った曝露実験から無機ヒ素による発がんメカニズムにはFosb遺伝子領域のメチル化が関与する可能性が考えられました。さらに研究グループは、妊娠期に無機ヒ素を摂取したマウスの孫においても肝臓がん発症率が高まることから、ヒ素の継世代影響を世界で初めて明らかにしました。

図2  生まれた仔のFosb 遺伝子領域のDNA メチル化率
 妊娠期ヒ素曝露群の仔の肝臓がん腫瘍部においてFosb 遺伝子領域のDNA メチル化率が有意に(*)高い。○は各サンプル、太い横線は平均値

DNAメチル化マーカーの探索

多くのがんはエピジェネティクスの異常と遺伝子の変異の両方が複雑に絡み合って発症します。マウスを使用した実験から無機ヒ素の発がんメカニズムにDNAメチル化の関与が示唆されたことで、ヒトでも無機ヒ素による疾患にDNAメチル化変化が関与しているのではと鈴木氏は考えています。「バングラデシュでは高濃度の無機ヒ素が含まれる地下水を飲用している地域があります。バングラデシュの研究者との共同研究で、地下水へのヒ素の含有量が少ない地域と高い地域の人たちの血液DNAを比べることで、ヒ素曝露によるDNAメチル化マーカーを探しています。DNAメチル化マーカーが見つかれば、慢性ヒ素中毒による将来の健康影響を予測でき、治療や予防の助けとなると考えられます」と鈴木氏は今後の展開を語ってくれました。  

マウスを使った実験から、発がんメカニズムの一端が明らかになりましたが、さらに継世代影響という新たな問題もわかってきました。ヒ素の生体への影響を評価するためにも、さらなる毒性メカニズムの解明が期待されます。

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