フォーラム随想加藤 九祚(きゅうぞう)さんのこと

2017年04月24日グローバルネット2016年12月号

日本エッセイスト・クラブ常務理事 森脇 逸男

11月初めの祝日、加藤九祚さんを偲ぶ会が東京であった。加藤九祚さん。ご存じの無い方も多いかもしれない。人類学者、アジア考古学者で、創価大学、国立民族博物館教授などを務められた方だが、94歳というご高齢ながら、現役で活動されていて、この9月、酷暑のウズベキスタンで古代遺跡発掘調査中倒れ、逝去された。この方の一生は、本当に普通の人ではちょっと考えられない驚きに満ちたものだった。

呱々の声を上げたのは、朝鮮半島が日本の植民地だった1922年、現在は韓国の慶尚北道だ。一足先に日本に渡っていた兄を頼って、小学生のころ山口県宇部市に渡来、工業学校を卒業後、工員や小学校の代用教員を務め、高等学校入学資格検定試験を通って上智大学予科に進んだ。当時は工業学校を卒業しても、検定試験をパスしなければ、官立高等学校にも私立大学にも進めなかった。決して恵まれてはいない環境で大学進学の資格を得たのは、いかに加藤さんが優秀だったかを物語る。

太平洋戦争が始まり、やがて学徒出陣で、仙台の工兵第2連隊に入営、見習士官に任官、関東軍に配属。敗戦後、ソ連の捕虜となり、滿洲・敦化からシベリアへ。収容所を転々とした。収容所から逃亡した3人の兵が、仲間を殺してその肉を食べるという悲惨な出来事も目にした。奴隷以上に苛酷な抑留生活の中で、加藤さんは「この機会を逃すまい」と、せっせとロシア語を学んだ。後年「国費でシベリアに留学した」と冗談まじりに話されていたということだ。

1950年ようやく帰国。復学した上智大学を卒業後、平凡社に入社、編集、営業、書店回りと社業に励む傍ら、身に付けたロシア語の能力を生かし、5年間を過ごしたシベリアの歴史、地理、民族の研究に打ち込む。

71年退社、75年には国立民族学博物館(民博)教授に招かれ、旧ソ連とモンゴルの民俗研究に従事、86年民博名誉教授、相愛大学、のち創価大学教授、そうして普通の人ならリタイアする退職後、新たな挑戦を開始する。

創価大学シルクロード学術調査団の団長として現地調査に出掛けたのを皮切りに、毎年のようにウズベキスタンやキルギスタンで古代遺跡の発掘調査を行い、ウズベキスタンのテルメズ郊外のカラテパでクシャン朝時代(1?3世紀)の巨大ストゥ―パ(仏塔)を発堀するという偉業を成し遂げた。以来、高齢を物ともせず、毎年発掘調査に出かけ、今年も夏に銅製のクシャン国王像の印を発見するなどの成果を挙げてきたが、この9月3日、酷暑の中での発掘調査中に倒れ、11日(日本時間12日)テルメズの病院で逝去された。山あり谷あり、まるで伝奇小説のような素晴らしい人生だった。

偲ぶ会は東京・市ヶ谷の国際協力機構(JICA)のホールで行われたが、出席者は、400人以上と主催者の予想を遥かに超えた。ウズベキスタンなどシルクロード各国の大使も挙って参加、加藤さんのそれぞれの時代に親しかった人たちが思い出を語るスピーチが4時間以上も続いた。

実はこの参会者の中で、最も古い時代から加藤さんを知っていたのは、私ではなかったかと思う。国民学校の児童だったころ、山口のカトリック教会で、上智大学に入学する以前の加藤さんと親しくしていた。確か、児童向けのプリュターク英雄伝を頂いたことがある。東京での学生時代、下宿と不和になり、学生会館にいた加藤さんのところに転がり込んで泊めてもらったこともある。2001年から12年まで毎年1冊刊行された『アイハヌム 加藤九祚一人雑誌』も送っていただいた。

最近では、昨年秋、吉祥寺で杯を交わした。今年もそのうちにお目にかかりたいと思っていたところだった。それでも、偲ぶ会で改めて知った故人の偉大さは、私の知っている範囲を遥かに越えていた。もっと生きていていただきたかった。

タグ:,