特集/新たな時代を拓くプロジェクトつなげよう、支えよう森里川海森里川海の恵みを支える社会への変革を目指す
涌井 史郎

2017年05月15日グローバルネット2017年5月号

私たちの暮らしは自然からの恵みに支えられています。この自然を象徴する「森」「里」「川」「海」は本来、互いにつながり、影響し合っていましたが、過度の開発や不十分な利用・管理により、その質は下がり、つながりも絶たれてしまっています。そこで、森里川海の恵みを将来にわたり享受し、安全で豊かな国づくりを進めるため、環境省は2014 年12 月に「つなげよう、支えよう森里川海」プロジェクトを立ち上げました。本特集では、このプロジェクトの背景および概要などについて、紹介します。なお、来月号から具体的な取り組みなどをご紹介する連載をスタートする予定です

東京都市大学環境学部 特別教授
涌井 史郎(わくい しろう)

自然の特質を尊重した国づくりの歴史と伝統とその喪失

わが国では伝統的に、自然とともに生きる戦略を暮らしの中に取り込んできた。例えば、平安時代『今昔物語』に取りまとめられたといわれている日本昔話では、必ずと言ってよいほど、物語の冒頭「昔々あるところに…お爺さんは山に柴刈りに…お婆さんは川に洗濯に…」と「桃太郎」も「舌切り雀」も書かれていた。これは世界最古のESD(持続可能な開発のための環境教育)であったのではないかと考えている。

「里山」という人間の「手入れ」を前提に生態系サービス(自然の恩恵)を最大化し、自然の応力(災害・獣害など)を最小化することは、日本の多様な気候と複雑な地形条件から必然であった。手入れを怠り放置しておいたとすれば、植生は自然の摂理に従い遷移し、刈敷農法のための落ち葉の利用や、燃料の採取など村人の日常の暮らしの糧を得る場ではなくなってしまう。そこで、お爺さんですら日々山に柴を刈りに出掛け手入れを怠らず、片やお婆さんは、アジアモンスーン独特の温暖多湿な気候を熟知し、清潔を常に心掛けないと病気の原因となる故に、洗濯にいそしみ清潔を旨としているという意味であると解釈している。そこに書かれているのは、日本の自然と付き合う際の原則を教訓的に示し、子供たちへの読み聞かせの折に、持続的環境教育として自然の特質を理解させていたのではなかろうか。

日常の暮らしの知恵としての自然共生から、国土レベルに目を転じれば、これもまた往時の為政者がしっかりと国土の特質を理解し、それなりに自然共生の道筋を政治に生かしていたものと思われる。その足跡はわが国が法治国家となった701年の「大宝律令」とそれに定められた地方行政単位「令制国(国郡里制)」の制定に見て取ることができる。政治力学であれば、地方豪族の政治的影響圏に従い国という行政単位が定められるところであろうが、律令時代の日本の国郡の地域境界は、河川や山間部の分水嶺など流域界を重視して決定された。自然に寄り添う姿で67ヵ国が定められている。

つまりこの列島の住人たちは、暮らしの場所、トポスの自然特性を熟知し、生きる上での最低の条件、自然の恵みとしての生産性を安定的に確保し、自然災害をしのぐ術を希求してやまなかった。自然に寄り添う「いなし」の知恵を最大化することで安心・安全を確保し、自然と人との関係をわきまえて生きてきた。

産業革命は、等身大の人間または家畜の力(エネルギー)を基礎に、補助的装置を組み込み文明を築いてきた生活型から脱却する機会となった。無機物を原料としたエネルギー源を投入し機械を駆動し、われわれの肉体的負担を減じるとともに、強く早くを合言葉に、自然共生の思想を捨て、利活用の素材として取り扱い、便利で合理的世界を築いてきた。その結果、より便利で合理的な世界を手に入れるために、常に投資を怠らず、技術開発を可能とする経済成長を伴うことが必然とされてきた。確かにこうした方向により、世界経済の規模は飛躍的に発展膨張し、科学技術は、より便利な日常を得る方向に動員され、ある種の成功を見た。

しかしそうした成長の陰に置き忘れてきた真実がある。それは半径6,400㎞の地球上の表面を薄く覆うわずかに最大30㎞の生命圏の存在である。この生命圏こそが多様な生物相を介して永続的なエネルギーと物質の自律的再循環のシステムを地球にもたらし、人類がそのシステムの恩恵を最も受容している。つまりエコシステムである。ところがその自立的システムにはおのずと一定の容量があり、過剰な負荷はそのシステムを破断させることにつながるという真実である。際限のない人類の成長欲求は、環境容量の限界に近いところまでに達し、エコシステムの破断を招く寸前のところまでに至っている。その典型が気候変動である。

われわれが持続的未来を望むなら、これまでの際限のない成長欲求を、エコシステムが維持され再生循環のシステムが破断しない範囲に制御する英知が求められる。

飽くなき欲望を募らせ成長を永続的に希求するフォアキャストの時代は終焉を迎えたと自覚すべきではなかろうか。成長の限界を想定し、そこに到達する以前の水準を世界共通の目標として制御要件としながら、そこからバックキャスティングする発想を倫理的に常態化することが必要である。

その常態化とは、つまりわれわれのライフスタイルそのものといえよう。それこそがわが国に伝統的な文化として根付いてきた自然共生の思想である。

自然を守れば自然が守ってくれる

わが国は、他の国にめったに見ることができぬ独特の自然の形質を持っている。花綵列島といわれるほどの南北におよそ3,290㎞に達する細長い列島であり、その原地形は火山由来であり、脊梁部には長大な山脈が縦貫し、平野部は極端に狭い。海岸線の総延長は6,852の島々を含めて2万9,751㎞に達し、世界で6番目に位置する。よって河川の河床勾配はこれまた世界に類例のないほど急であり、そこに世界平均の2倍の1,718㎜の雨が降り注ぐわけであるから頻繁に洪水が起きる。故に海岸の沖積低地としての平野部では、海岸に吹き付ける風により砂堆丘陵が形成され、沼沢地が広がることとなる。

つまり自然の恵沢と災害が背中合わせという宿命を持つ列島であるといってよい。それ故に歴史的にこの列島の住人は、いかに自然と共生をするのかを模索してきた。その英知が「手入れ」であり、それが空間に典型的に投影された姿が「里山」である。人々は手入れと引き換えに、自然の恵沢、二次林の生態系「里山」の安定を手に入れ「野良」と呼ばれた採草放牧地としての草地生態系からの落ち葉や枯れ草から堆肥を刈り敷いて、畑地や田んぼに栄養分を供給するシステムを獲得した。併せて里山から、薪や炭のエネルギーも安定的に得、時には小動物やキノコなどの副産物も手にすることができた。

また自然災害にたびたび遭遇する不幸から、2012年インドのハイデラバードで開かれた生物多様性条約第11回締約国会議(COP11)のスローガン「自然を守れば自然が守ってくれる」と同様、「Eco-DRR(自然生態系を活用した防災・減災のシステム)」のシステムに行きついた。

つまり古来より自然と向き合って、自然の恵沢と恐ろしさをよく認識していた先人たちは、おのずと自然とは、空間にある大きさが備われば、自律的循環的な存在となり、自然を守れば自然が守ってくれる条件を具備するという真理をそれとなく認識していたのであろう。

その発想がわが国において里山の外側に、人が多く介在しない非収奪的な空間、いわばプリザベーション型の空間を神に擬えて位置付けていた。それが外山・奥山・嶽という存在であり、神が支配する空間として、人々の都合や恩恵への欲求に左右されない絶対的空間の存在の必要性を認識していたのである。

こうして里・野良・野辺・里山という人々が手入れを怠らぬ限り、恩恵つまりその土地の自然に即した生態系サービスを日常的に享受できる空間と、災害などの異変が生じた折に防災・減災に機能するであろう空間、つまり神と人の空間を併存させるという知恵を身に着けたのではなかろうか。

こうした思想は、戦乱に明け暮れながらも自身が経営する領地が安定した収穫量を保持できるようにと多様な策を練った戦国大名の間にも受け継がれてきた。領民の安寧は、自然をいかに安定させるのかにあり、それこそが自身の領国経営、他者との戦に対しても経済的利得をもたらすと考え、多様な策を練ってきた。

その代表例が武田信玄の、荒れ川であった甲府盆地を流下する笛吹川と釜無川の治水策「霞堤(信玄堤)」であり、佐賀・鍋島藩の成富兵庫茂安による佐賀平野のクリーク網と筑後川治水に用いられた多様な土木技術。そして加藤清正の熊本城下白川の、阿蘇由来の火山灰を河床に堆積させ、河積が縮められる結果、洪水が多発することを防ぐため、外輪山を流下した白川より岩盤地帯に向けて「井出」つまり分水を引き、そこに分水を潜らせ上から穴を開け、分水がトンネルを流下する際、空気が混入することによって攪拌現象を起こさせ、下流に向け火山灰を排せつする仕組みを考案したことなどに見て取ることができる。

また論者は、わが国の文化資産の代表である「日本庭園」もそうした自然と共生する知恵を空間にモデル化したものであろうと考えている。

このようにわが国では古来より常に自然と共生する仕組みの維持と創出を試みてきた。森・里・川・海の連環のシステムへの認識とその維持は至極当然にわれわれの暮らしの安寧を図る上で常識とされてきたのである。

未来への課題解決に欠かせぬ森・里・川・海と人々の連環

近代になって、日本は西洋の産業文明を取り入れた国づくりを進めた。とりわけ戦後の経済成長期以降、人口は都市に一極集中し食糧や木材などの原材料は、海外からの輸入に依存するようになる。ここから自然を主体として暮らしの道筋を整えてきたこの列島の人々の哲学と暮らしは、自然から切り離されて当然のような方向に変化してしまう。土地はただの広がり・空間としてしか評価されず、トポスとしてそこに独特の自然が伴わずとも、当面の経済性を維持することに腐心することが当たり前となった。その結果、荒廃し、手入れが放棄された二次的自然や農的景観がそこここに見られる列島が現出するありさまとなった。約半世紀のうちに、ついに人々の意識からも、自然は視覚的対象物のみとして意識されるようになり、システムとしての認識が消滅する。広がり・空間としての土地への意識と経済財としての価値のみが語られることとなるに至り、土砂崩壊や洪水、津波の直撃を受けやすい沿岸域など、従来は人が住まなかった土地にまで暮らしが進出する。

一方、土地の特質、例えば「身土不二」といった土地と気候と水利の関係が地味を生み出すといった意識は、それを大切にしてきた農業の世界からも消えていった。その結果が2011年の東日本大震災に如実に表れている。もはや人工的な構造物だけで自然災害をコントロールするには限界があることを思い知ることとなる。

わが国の未来のために

わが国の未来は、人口の減少と超高齢現象が加速し、一方でアジアが世界経済のけん引役であり続ける結果、日本の世界経済に対する立ち位置から、イノベ―ティブでクリエーティブな産業を創出する方向、つまり第4次産業革命に向き合うこととなる。

一方、成長から成熟へと他動的要因からも変貌を余儀なくされる中で、これまでのような社会資本への投資の継続は困難となる。

国際的にも、2015 年9月に国連において持続可能な開発目標(SDGs)が採択された。これは「質の高い成長」の実現を目指し、経済・社会・環境の均衡の取れた「持続可能な開発」達成のための国際目標である。そこには当然、気候変動への対処、生物多様性などの対応が含まれ、森里川海のつながりの中で人材を育成するESDは SDGsの達成に向けた俯瞰図とみることができよう。

故に、こうした未来の予見を念頭に置き、改めて森里川海とそのつながりが有する機能を「自然資本」と位置付け、そこから有形無形の新たな恵沢を国土計画に投影する賢い戦略が求められる。これまでの地域資源を消費するだけのライフスタイルから、今後は自然資本をストックとして位置付け、その維持・再生を図りつつ、そこから生み出される新たな恵み(フロー)を社会経済において活用するとともに、成長のみならず成熟を展望し、より幸福感を実感できるライフスタイルを希求することが重要ではなかろうか。

とりわけインバウンドや地方創成を当面の戦略として考えた場合、各々の地方・地域の価値を改めて再評価し、いたずらに利益結合型の社会のみを希求しがちな世界にあって、自然と土地と暮らしのつながりが空間に投影し、共助の心と自然に対するたゆまぬ手入れの積み重ねの中に、郷土愛など、地域社会の内側のつながりに根ざした「地縁結合型」の社会像が可視化されることは、その土地に暮らす人々と訪れる人々双方にとって極めて効果的である。自然資本財と人々の伝統的文化ともいえるつながりが基盤となったランドスケープこそが、集中の地域では生まれ得ない新たな価値を増幅させることとなる。

こうした方向こそが、観光のみならず、未来に必然となる創造的産業シーズの創出を含めた新たな経済性を生み出す可能性があることにも着目すべきではなかろうか。創造性とストレスマネジメントが一体となった社会像こそが世界の先端的産業立地のある種の目標となっている。

このように俯瞰すると、時間距離の短縮とITの発展は、近未来、多地点居住の趨勢を生み出す可能性が高い。森里川海と人々が新たなつながりを得るために、流域圏という生態的単位を念頭に、上流域と下流域、農山漁村と都市がしっかりとつながり、多様な世代や組織そして個人が新たなライフスタイルを実現するために支え合う。森里川海の循環体系が健全に機能する中で、環境・経済・社会の課題を統合的に解決し、低炭素・資源循環・自然共生社会が同時に 実現される地域づくり、国づくりを目指すことが、日本の力を高め、国際的にも誇り得る国柄を再創生するものと考える。豊かな自然の懐で豊かな心と感性を涵養してきた先人たちの歴史と英知。それこそが、未来への課題解決への近道ではなかろうか。

「いのち輝く国づくり」。それが森・里・川・海、そして人々のつながりの再生をもくろむ最終目標であると考えている。

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