ファテープール・シクリのムガル式都市

(文化遺産、1986年指定)
Fatehpur Sikri

予言者の地
  1558年、ムガル帝国第3代皇帝アクバル(1542〜1605年)は首都をデリーから200q南西の都市アグラへ移した。当時アクバルは跡継ぎになる男児が生まれず悩んでいた。アグラから西へ約40q離れたシクリの地にシェイク・サリーム・チシュティというイスラムの聖者が住んでいた。サリームの予言は的中するという噂を聞きつけ、アクバルは聖者を訪ね、伺いをたてたところ、近いうちに男子を授かると予言され、その通り息子が誕生した。アクバルは大層喜び、聖者にあやかって宮殿をシクリに移すことを決め、1569年から5年かけて都を建設した。
  この規模の建物群を建設するには通常なら15年以上かかるはずだったが、アクバル帝の並みならぬ熱意で大急ぎで建設が進められた。時にはアクバル自らが建設現場の先頭にたって石を運び、作業員を激励したという。
  当時ムガル帝国と敵対していたインド西部のヒンドゥー教勢力グジャラートとの戦争に勝ったことから「勝利の町」(ファテープール・シクリ)と名付けられた。

テント式宮殿を石で表現
  ファテープール・シクリは多くの熟練した建築家達によって計画されたため、画一的ではなく、それぞれの建物には個性がある。ムガルの皇帝達は領土の拡大や統治のため常に遠征し、移動式テントで生活することが多かった。そのためファテープール・シクリの都市プランにはテント式宮殿の影響が見られる。建築材は主に赤砂岩である。宮殿があるシクリの中心部分の保存状態は良い。
  最大の建造物は最初に建てられたイスラム礼拝堂ジャマ・マスジッドである。この南門ブランド・ダルワーザはアクバルが勝利の記念碑として建てたもので高さ12m。内側は緩やかな曲線を描き頂点で合わさるイスラム建築特有の尖状アーチで、2階建の堂々とした門である。

独創性あふれる王宮建築
  王宮中心部のパンチ・マハル(別名:風の塔)は5階建てで176本の柱によって支えられている。同じデザインの柱は一本としてない。パンチ・マハルは壁がなく、上の階へ登るにつれて床の面積は狭まっていく。このような建物はアクバル独自の発想で、ムガル建築史上例がなく、建設目的や用途がはっきりとしていない。涼しい風を受けながら公的な謁見や宴を上から眺めるために作られたと推測されている。
  北のはずれにある立方体型の建物はディワニ・カース(写真26)と呼ばれ、アクバルの私的な謁見場だったといわれる。内部には中央に1本の柱があり、4mの高さのところで梁のように水平に四隅に広がっている。これはテントの骨組みを石像建築でまねたものであるが、梁の部分を広く取り、歩いて対角線上に渡れるようになっている。アクバル帝はこの梁が交差する柱の上の部分に座り、訪問者を見下ろしながら謁見を行っていたといわれる。
ディワニ・カース

写真26 ディワーニ・カース。アクバルの私的な謁見の間。

短命に終わった王宮都市
  しかし、王の権力と夢の象徴として建設された都市は、わずか14年間しか使われなかったという。水不足がその原因というのが定説だが、防衛上の理由からという説もある。実際、アクバルはファテープール・シクリを去ってから、現在のパキスタンの都市ラホールを拠点にした。そして1598年、城塞機能を完備したアグラに戻った。ファテープール・シクリが王宮と行政の中心として機能している間もアグラは商業の中心地であり、軍事機能の中心は常にアグラ城にあった。

参考文献
Abbas Rizvi, Saiyid Athar, Fatehpur Sikri, Archaeological Survey of India, New Delhi, 1992.
Lall, John; Dube, D.N., Taj Mahal & The Glory of Mughal Agra, Lustre Press, New Delhi, 1991.

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