サンチーの仏教建造物群

(文化遺産、1989年指定)
Buddhist Monuments at Sanchi

 
インド最古の仏塔群
 マディヤ・プラデーシュ州の州都ボパールから北へ67q。小さな村の小高い丘にサンチーの仏教遺跡がある。建造物の主役は球形ドーム型の3つの仏塔(ストゥーパ)で、インドに残る最古の仏塔である。
 サンチーは仏塔が建設された紀元前3世紀頃から仏教信仰の場になった。広大なデカン高原の大地を見渡すことの出来るこの丘は瞑想など修行のためには理想的な場所であった。サンチーは紀元後11世紀まで栄えるが、インド仏教の衰退とともに訪れる人々の足も遠のき廃墟になった。
 建物として現存しているのは1912年に修復された第1、2、3の仏塔と僧院の堂で、他は土台が残っているだけである。
 最大の第1塔は高さ16.5m、直径36.6 m ある。インドに仏教を広めたマウリヤ朝アショカ王(1)が建立した。塔の東西南北には入り口にあたる塔門(鳥居のような門)が建てられている。この塔に釈迦の遺骨が納められていたという記録が残っている。当初は現在の半分くらいの大きさしかなかったが、後の王朝や信者の寄進によって増築され、塔門や欄楯(らんじゅん/仏塔を取り巻く柵のようなもの)が付け加えられた。

写真1. サンチー第1塔の欄楯。欄楯内側の光景。寺院建築が石造りになる前は、木や竹で垣根のように作っていた。参拝者は北の塔門から欄楯の内側に入り、念仏を唱えながら時計回りに塔を三周する。釈迦を葬る際に500人の比丘たちが右肩を釈迦の遺体の方へ向けて三回回りながら礼拝したことに由来している。

注(1)インドを史上はじめて統一したアショカ王(紀元前268年〜232年)は残酷な性格で知られ、暴虐王と呼ばれていた。インド東部のカリンガ王国を征服した際に数十万人の犠牲者を出し、その悲惨な状況を目のあたりにしたアショカ王は深く後悔し、仏教に帰依、武力政策を放棄したという。その後の王は仏教を厚く保護した。仏典の編集事業を行ない、インド中に8万以上の仏塔を建てさせた。サンチーもその事業の一環であった。
 アショカ王の息子マヒンダと娘サンガミッターが仏教伝導のためスリランカへこの地から旅立ったことは有名である。

貴重な仏教彫刻
  第1塔の塔門に施された彫刻は古代仏教美術の傑作である。動植物の模様、民間信仰の神々、仏教説話 (2)などの浮き彫りが四つの塔門の表裏、柱を埋め尽くしている。仏教説話の彫刻には釈迦の誕生から涅槃まで数々の物語が描かれている。しかし、釈迦の姿は直接描かれておらず、菩提樹や足跡などで象徴的に表されている。当時は神聖な釈迦の姿を描くのは大変おそれ多いことだった。
注(2)仏教説話図:釈迦(本名:ゴータマ・シッダールタ)は現在のネパール領内、インドとの国境に近いルンビニーのシャーキャ(釈迦)族の王族の家に生まれた。釈迦と呼ばれるのは彼の出身地から由来している。一方ブッダ(仏陀)とも呼ばれるが、これはサンスクリット語で「真理に目覚めたもの」を指す。
  釈迦は29歳まで王宮で育ち、結婚し一男を得たが、人生の苦しみからの解脱を求め、すべてを捨てて出家した。35歳の時、現在のボードガヤー(ビハール州)の菩提樹の下で悟りを開き、ブッダと呼ばれるようになった。
  サンチーの仏教説話彫刻にはこうした釈迦にまつわる物語が生き生きと表現されている。
  4つの塔門のうち北門がもっとも保存状態が良く、仏教説話の彫刻、象などの動物彫刻が残っている。東門には木に掴まった姿のヤクシー女神の全身像が残されている。ヤクシー女神は仏教誕生以前から存在したが、古代仏教はこのような民間信仰の要素も混ざりながら発展していったようである。このヤクシー女神像は豊かな胸を露にし、女性の生命力を象徴する力強さを感じさせる。サンチーを代表する人物彫刻である。

写真2. 第1塔東門のヤクシー女神像。木に掴まっている様子を表している。柱にはゾウ、ライオン、クジャクなどの動物が浮き彫りされている。



  第2塔と第3塔は第1塔より小さくまた簡素である。第2塔は丘の西中腹にあり、欄楯(らんじゅん)は設置されているものの塔門ははじめから作られなかった。欄楯には蓮華模様、聖樹を拝む図、蛇、法輪孔雀など動物や植物の素朴な浮き彫りが施されている。
  第1塔の北隣に第3塔がある。塔を取り巻いていた欄楯は現在は残っていない。塔門も南側に一つしかない。
  1912年の発掘では第2塔と第3塔からマウリヤ朝アショカ王時代の高僧の名が刻まれた石が発見された。この二つの塔は釈迦の弟子たちの遺骨が納められた墓またはマウリヤ朝の高僧の墓であると考えられている。
  仏塔の建設者アショカ王の妃デーヴィはサンチーから9キロ南西の町ヴィディーシャーの大商人の娘だった。マウリヤ朝によりインドに平和が保たれ、自由に交易ができるようになったヴィディーシャーの商人たちはアショカ王の政策の恩恵を得ており、王自身とのつながりも深かった。サンチーに仏塔が建設された背景にはこのような事情もあったと考えられている。長年に渡るサンチーの繁栄はヴィディーシャー商人たちの寄進に支えられていた。
 

写真3. 塔門に彫られた三頭のライオン。これはアショーカ王及びマウリヤ王国の象徴である。アショカ王はこのライオンの彫刻を施した柱(アショカ王柱)をマウリヤ朝の権勢が及んでいた各地に建立した。



写真4. サンチー第1塔。高さは16.5m、直径36.6m。インド最古の仏塔である。


インドの遺跡管理の手本
  14世紀以降、人々に忘れられて廃墟になったサンチーは1912年に遺跡や文化財を管理・調査するインド政府考古調査局(ASI)によって調査・修復された。資料に基づき、サンチーの遺跡は可能な限り正確に再現された。この事業はインドの遺跡管理の手本となった修復であったといわれている。現在の姿はこの修復直後からほとんど変わっていない。
  現在、サンチーの遺跡群のはずれにはマハボディソサエティ(大菩提会、本部:スリランカ)の仏教寺院があり、スリランカから派遣された僧が修行に励んでいる。今日、インドには仏教徒は200万人程度しかいないと言われるが、スリランカなど周辺仏教国からサンチー巡礼に訪れる人が少なくない。

関連情報:
  サンチーまではボパールからヴィディーシャー行きの乗合バスで1時間半。または各駅停車の列車を使う。ボパールからタクシーを一日借りた場合、3000円程度。サンチー駅から遺跡群の入口へ向かう道の途中に小さなサンチー博物館がある。サンチーから出土したアショーカ王石柱や仏像などが展示されている。
  この地方の夏、5月から8月にかけては気温が45℃にもなるため、11月から2月までの乾期に訪れる方がよい。

年表
前317年チャンドラグプタがマウリヤ朝を創始する。
前268年アショカ王、半島南部を除くインドを統一。東部インドのカリンガ王国を征服後、仏教に深く帰依する。サンチーの仏塔を建立。
前232年アショカ王没。
1世紀第1塔の塔門が南門、北門、東門、西門の順に完成。
11世紀頃まで周辺の建物の建築が行われた。

参考文献:
沖守弘、伊東昭司『原始仏教美術図典』雄山閣出版。
平凡社『南アジアを知る事典』1992年。 樋口隆康(編)、田村仁(撮影)『世界の大遺跡8 インドの聖域』講談社、1988年。
Mitra, Debala, Sanchi, Archaeological Survey of India, New Delhi, 1992.
Nath, Narinder; Saxena, J.P., Archaeological Museum Sanchi, Archaeological Survey of India, New Delhi, 1981.


 
サンチー第3塔 第1塔北門
写真5. サンチー第3塔。塔門は南側に1つしかない。 写真6. 第1塔の北門。仏塔や菩提樹、釈迦の説教を聞くゾウやシカなどの動物たちの姿が浮き彫りで描かれている。左の柱の下の部分には彫刻がない。どうしても発見することができなかった部分を補うため、新しい石を彫刻なしで組み込んだためである。

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