若干の論点整理及びコメント

                                  寺田 達志

 

 14日の検討会の出席が困難かも知れない(少なくとも確実に遅刻はする)ところ、12日に「重要」とご指摘あった点のうち「公開」問題と「第三者機関」問題について、若干の論点整理とコメントを提出します。

 なお、これまで研究会をほぼ大村、和田の両君にまかせていましたので、研究会での議論を踏まえていない点、誤解ある点多々あろうかと思いますし、なによりコメントは小生の日本における環境影響評価法立法時の議論と経験をベースにしておりますので、JBICの特性に少しも配慮していない恐れ大であります。したがってコメントを出しながら、申し訳ない無責任な言い方ですが参考としてご一読いただければ幸いです。

 

公開について

 

(論点)

       提出されている意見は、つまるところ「提言では「公開」なのにドラフトでは「閲覧」になっているからけしからん。」ということでしょう。「閲覧」も「公開」の一形式ですから(行政情報公開法は閲覧を主たる手段にしている。)、別に提言違反ではないのですが、一般に「公開」というと、請求に応じて開示する「閲覧」よりはより積極的な公開をイメージするし、恐らくアセスに詳しい方々は、日本のアセスで一般的である「広告縦覧」を最低限のものとして認識しつつ議論をされたと思いますので「あれれ」ということになったと思われます。したがって、提言と違うかどうか?違う理由はなにか?という議論はあまり意味がなく、公開の形式として閲覧が妥当なのか、妥当でないとすればどのような公開方式が望ましくかつ現実的なのか、の議論を行い。その結論により表現を考えるべきと考えます。結論が出ない場合は「閲覧」も公開の一種なのですから、提言どおりにしておけばいいじゃないかという案もあるでしょう。

(コメント)

       「公開」といっても全国津々浦々に配り歩くなどということが現実的でないことはいうまでもありませんから、実際はJBICの情報公開セクションでオープンにするのが一般的でしょう。さすれば、実態として閲覧とほぼ変われない手間ですから閲覧を縦覧に変えてしまうのが手っ取り早い解決方法です。

       大して変わらないなら「閲覧」でもよいではないか?という考えもあるでしょうが、これは二つの点で問題があります。

       第一は、公開対象文書が複数にのぼる場合(相手国のアセス水準及びアセス制度を考えれば単一のアセス書で十分という例は少ないと考えるほうが自然)、何を閲覧請求すればよいのかということを申請者が判断するのが困難であること。この場合、申請者が必要な情報を得られないという申請者側の不利益と、「わからんからとにかく関係書類全部出せ!」ということになり、窓口で不信感、トラブル及び手間を増大させるというJBICにとっての不利益(今の政府の情報公開法の運用では山ほどこういう例がある)の両方が生じます。そんなことなら公開文書の範囲を予め決めて縦覧した方がよっぽどすっきりしている。

       第二に、こちらのほうが第一よりよほど重要なポイントですが、JBIC側にとっては「請求に応じて情報を出した。」という閲覧よりも「積極的に可能な限り全ての情報を開示した。」といえる縦覧の方がはるかに利益になるということです。まず、少なくとも先進国ではアセスの公開といえば縦覧が最低レベルであり、これをしないと非難は間違いないと思われます。もとより事業者が行う公開と、融資者であるJBICが行う公開は、レベルが違ってもいいのですが、さりとて縦覧をしない説得力ある理由がありそうもないので、やはり非難は免れません。次に縦覧により積極的に公開したということは、不幸にもプロジェクトにより環境保全上の支障が生じた場合でも、JBICとしての過失責任を問われないための保険になるということです。JBICとして知りうる限りの情報を収集し、しかも公開して意見まで求めた、ということなら過失責任の問われる度合いはかなり減少しますが、「世の中で当たり前の公開もせず、専門家や第三者へ情報を隠して、結局十分な注意を怠った。」と言われるのはよい事ではありません。無論、「制度がそうなっていないから。」といういい訳が通用しないのは、五大公害訴訟判決以来の判例学説上の定説です。

       さて、一方で「入手」まで保障せよ!というご意見があります。これは今後検討が必要な課題ですので、ここまで今ガイドラインで明確にする必要はないと思います。ただ、これはアセスの公開議論で必ず出てくる話ですので、実務上の参考を述べます。実際問題として、大部のアセス書を何百冊もただで用意するのは大変だし、第一資源の無駄遣いでありましょう。日本のアセスでは、通常「貸し出し用」のアセス書を数部用意して、短期間貸し出し、「コピーは自分の金で勝手にどうぞ」というのが一般的です。なお、行政機関では費用を徴収しようとすると法令の整備が必要ですので、うっとうしいからやりませんでしたが、JBICなら遠隔地の方のために費用を負担していただいて、コピーを郵送するということもできるかもしれませんね。

       さて、こうした問題を一挙に安価、かつ手間なく解決できるのが、借入人等にアセス書等を電子ファイル(PDFファイルが一番よいでしょう)で提出させて、それをウエッブ上で公開してしまうという手です。アセス法立法時には、当時のインターネット環境は今と比較にならないお粗末さで、立法例もなかったので断念しましたが、今なら少しも無理がないと思います。現実にアメリカやカナダはそうしています。これは、公開の手法として最も優れているだけではなく、JBICにとって恐らく最もコストパフォーマンスの良いやり方ですから、検討の価値があると思われます。

 

第三者機関について

(論点)

       論点はシンプルで、提言のP19〜P20にあるガイドラインの実施・遵守の確保に書いている組織論、なかんずく独立的機関の話がめいかくになっていない、ということでしょう。これについて、ドラフト案ではP9の6.においてJBICが異議を受付け、必要な措置をとる、としていますがそれでは不満というご意見と思われます。

       ところで第三者機関を置くとしても、本ガイドラインがJBICの自主的環境保全手続きである以上は、当該機関はJBICの組織(職員か職員外で構成されるかはともかくJBICの意思により設置運営されるという意味で)にならざるを得ない(法律改正をしようというなら別ですが、それは当面非現実的でしょう)と考えられます。そういう意味では、第三者機関は、明確に記述されていないが、ドラフト上完全に否定はされていない。

       要は、政府系金融機関への風当たりが強いなか、いろいろJBIC内部でも難しいお話あると推察するところ、どこまで書けるのか?という話ではないでしょうか。

 

(コメント)

       第三者機関の議論は、アセス法制定時の最大の議論の一つでありました。アセスというのは手続法でありますから、事業の正統性(レジティマシー)は事業内容や結果ではなく手続きにより担保されるという思想に立っております。そしてそれは、とかく悪役にされがちな事業者等を第三者の関与する手続きによって防御してあげるシステムであります。このためには事業者等と関わりのない第三者が重要な役割を持たざるを得ない。しかも、いろいろなトラブルが頻発するのですからそれを消化するにはそうした第三者機関が必要になるのは火を見るより明らかです。

       議論のポイントの一つはJBICが通常の「事業者」とは違うのか?もっと簡単に言えば本質的に「事業を推進したい。」というマインドを持つ機関なのか?というところです。もう一つのポイントはJBICがアセス書等を本当に読みこなす力があるのか?というところです。

       まず第一のポイントについてです。アセス法においては「事業を推進する」立場にある事業官庁と環境庁(省)は独立している。その環境省が審査権限を所有しているからよいのだ、という構成をとっています。ご承知のように内閣総理大臣は各省大臣の任命権は持っていますが、各省行政に指揮権はありません。内閣の意思は原則として全員一致の閣議決定においてのみオーソライズされるのです。そのような独立審査組織として環境省がある。これに対し、ほぼ全ての地方公共団体においてアセスには外部機関である「審査会」が置かれています。これは、内閣制とは異なり、大統領制の地方公共団体においては事業推進部局と環境部局が本質的に独立性がないからであります。

       簡単に言えば「事業をやりたがっている奴等だけでは信じられん!」という話にどう対応するかという話です。JBICは「事業をやりたがっている奴等」ではないのですが、そんなこと言っても当面はまともにそうは思ってもらえないでしょう。何よりもアセス法でも、事業担当とアセス担当は別にしろ、と前代未聞の条文を置いているくらいですから。少なくともアセス審査担当の部局を明示し、かつそれをサポートする諮問機関を作り、その位置づけをガイドライン上も明確にしたほうがよいのではないでしょうか。そうしないとアセスにありがちな学術論争の逃げ場がなくなり、大変なことになりますよ。もとよりJBICの優秀な皆様が第三者機関などに頼らずとも大丈夫とおしゃるなら、それはそれで結構ですが、第二のポイントである「JBICがアセス書等を本当に読みこなす力があるのか?」という問題に関連しますが、ガイドライン上明示された第三者機関の権威なしにJBICスタッフがこれからの案件審査ででてくる諸般の専門的議論の決断責任に耐えられるとは思えない、というのが小生の実感ではあります。