III. 経済の概況


国際環境NGO FoE Japan

現況

ロシア極東地域は、原料生産では国内市場でトップの座を占めるようになった。極東ロシア地域は(ロシア連邦全体も)重工業と鉱業、エネルギー、運輸、林業、軍事の諸部門を主要産業とし、これらの部門も伝統的に国有の大規模な数事業所に集中していた。中央経済を所轄するモスクワの諸機関が各事業所の割当生産高を決定し、目標生産高は、5ヶ年計画が改まる都度常に増加していた。この中央経済は非常な効率の低さと大量の廃棄物を全産業部門にもたらした。環境保護の費用は経済成長を妨げる壁とみなされたため、持続性ある資源利用は概ね無視されたのである。
 ソ連邦が解体し、連邦補助の削減とあいまって燃費の高騰、内需の萎縮、国有事業の共同株式会社への転換、競争力の不足などがロシア極東地域の諸産業に大きな打撃となって襲い、1994年の産業産出は21%下降した。今は多くの産業がアジア太平洋諸国へと目を転じて、木材や金、石炭、魚類、その他の未加工資源の販売に猛ダッシュをかけ、硬貨獲得に走っている。日本は極東ロシア最大の貿易相手国であって、1994年の対日輸出は25.7%増、1995年はさらに伸びることが予想される。1994年には、全国の輸出高にロシア極東地域が占める推定比率が倍増している。ロシア極東地域は対外貿易に力を入れることによって、ボルシェビキ革命以前にそうであったように太平洋地域社会の一員に復帰しようとしている。
 どのレベルでも役人は依然として権力争奪に余念がないが、国家支配の中央計画経済から市場経済への移行は、地域と地方の政府の資源管理権限を強化することとも考えられる。しかし連邦政府と地域政府と地方政府の関係はまだ明確ではなく、そのため民営化、土地使用、森林管理、その他の問題に混乱が生じている。地域政府への権限移譲を進めるため連邦が出す布告には、残念なことにいくつもの矛盾を持つものが多い。例えば1991年連邦土地法は、土地民有化と、企業による土地使用の決定・監視権の監督を地域政府と地区政府に移譲することを定めたものだが、地域政府と地区政府の監督履行の方式も、この政府が処理不能な場合の問題処理に当たる連邦機関も明確にされていない。その結果今は、有力な木材会社、鉱業会社、漁業会社が土地使用権を得ようと、地域政府と密着して不明朗な関係を持つ動きに加担する形になっている。腐敗一掃を期して、1992年環境法でエクスペルティザ (環境影響アセスメント) が義務づけられた。米国で施行されている、開発プロジェクト計画に関して必ず環境影響アセスメントを行わなければならないとするものよりやや幅の狭い内容である。残念ながらエクスペルティザは、それが何かを理解しない国民が多く、したがって地方の腐敗した役人と企業によるまやかし、あるいは小手先の処理に終わってしまっている。
 しかし明確に規定されている法律と地方政府の責任が全く無いわけではない。ただ、こういうものを打ち出し、履行する専門的な知識と技術、意志が役人に欠けているだけである。これに輪をかけているのが、成文法に対する関心が薄く、解釈の幅の広い " 状況 " 次第の法律を好むロシアの伝統である。現行法規の施行がおろそかにされる原因は、法律執行権を持つ独立の司法部門が存在しないことにある。ソ連邦の時代、共産党の指導者の一存で裁判官の任命も罷免も行われ、政府の優先事項と矛盾する法律はしばしば無視された。
 したがって、地域政府と連邦政府の役割がもっと明確に規定されるまでは、また資源利用に関する法律がしっかり施行されるまでは、ロシア極東地域の産業は資源の無駄遣いにも、政府の役人の腐敗にも、木材と採鉱と漁業の会社の環境規制無視にも寛大であり続けるだろう。

次のセクションではロシア極東地域の主要産業を取り上げるが、林業については「セクション IV 森林と林業」で触れる。

漁業

ロシア極東地域の最も重要な産業は漁業であり、総産業生産高の4分の1を占め、雇用人口は約160,000である。総生産高が落ちたという点では漁業部門も他部門と変わらない。漁獲高が1988年には500万トンだったが、1994年にはわずか220万トンにとどまった。これには、国有事業が解体して共同株式会社に転換するのにつれて、漁業部門の集中排除が徐々に進んだことが大きく影響している。当時は沿海地方、カムチャツカ、ハバロフスク、マガダン、サハリン各地域の国有企業でつくる全体組織 "ダルリバ"(Dal'ryba)がこの部門をコントロールしており、民営化前の漁業と魚肉加工の75%を握っていた。ダルリバの当時の幹部には、新しく生まれた他の共同株式会社の経営者になった者が大勢いる。漁業部門では共同組織とジョイントベンチャーが主流を占めている。外国企業は、未加工の魚をロシアから輸出したり、漁業権を獲得することを狙ってジョイントベンチャーを設立する。ジョイントベンチャーは少なくとも50社はあり、その内20社は日本との合弁である。共同組織には中小規模のものが多い。
 生産性の低下を招いている原因には、集中排除の他に、旧式の漁船と加工施設が未だに使われているということもある。漁船の64%、加工船の95%、輸送船の56%は使い古され、スクラップにしてもよいはずのものである。定期に出る給油船が無いこと、国内市場が萎縮していることも生産低下の一因である。
 ただ、対外貿易は好調である。トップの輸入国である日本の輸入量(大部分は未加工の魚類) は過去5年間で3倍に伸びた。「我々は対外貿易に非常に努力している。誰しもがこれに関わっており、昔の政府官僚も例外ではない」。国内向けの魚類販売にはほとんど力を入れていない。ある関係者の言う通り、"魚は、国内では消費者に売られたことがない−もらうものだったから" である。
 外国企業には、輸出促進措置として、漁船を賃貸するか売るかして、見返りに魚類製品を受け取る形を取る所も多い。ソ連邦の時代に最大のカニ製品製造所だったダルモレプロダクツは、10隻のカニ漁用キャッチャーボートをオール・アラスカン・シーフード (米) から10年間の契約で借りており、米政府の下部機関の一つ 海外民間投資公社(OPIC)がこれをバックアップしている。
 オール・アラスカン・シーフードのスポークスマンは、 "当社からは船を提供し、ダルモレプロダクツは割当量を当社に納めている" と話している。残念なのは、このような取決めがロシアの加工産業の発展にはほとんど効果を及ぼしていないないことである。未加工魚製品の輸出は加工品収入に比べると非常に少ない。
 沿岸水域では過剰な操業のため重要魚類の数が減少しており、特にタラ、ニシン、カレイ、ホタテ貝、カニ、サケの減少が顕著である。ロシアの生態学者の指摘によると、問題が最も深刻なのはオホーツク海の "ドーナツ・ホール" と呼ばれている、外国漁船も立入ることのできる海域だということである。ロシア政府は先頃、この海域での操業を減らすため外国漁船のロシア水域への立ち入りを認める協定を結んだ。
 ロシアの漁船にも外国の漁船にもあるが、保護の対象になっている魚類の密漁の問題も解消されていない。1994年、密猟防止班が徴収した罰金、押収したギヤと漁船は約800万米ドルにのぼったが、許可無く操業している所を見つかったロシアの漁船は外国漁船の3倍あった。

その他の動向

石油・ガス産業

極東ロシアには、世界でもまだ人の手の入っていない最大の石油と天然ガスの資源が数カ所にあるが、現在の生産量は非常に少なく、石油は約180万トン、ガスは約330万立方メートルの生産量があった1992年以降減少が続いている。現在生産を続けているのはサハリン北部とヤクート中央部だけであるが、政府はサハリンとマガダン、カムチャツカ、ハバロフスクの沖合いの大陸棚の資源の開発を計画している。サハリンで進められている複数の石油プロジェクトは三菱、三井、ロイヤルダッチ・シェル、エクソン、テクサコなど多くの国の企業が関わり、トップを切っている。ヤクートと韓国の企業が石油とガスのパイプラインを韓国まで敷設する工事の協議に入っているが、正式な契約はまだ結ばれていない。外国の投資家は、ロシア極東地域のエネルギー部門への大型投資を最優先させようとしているようにみえる。

石炭産業

カムチャツカを除くと、石炭はどの地域でも最も重要なエネルギーであり、沿海地方では総エネルギー生産高の90%以上、ヤクートでは80%以上を占めている。石炭産業は他の産業と違って、共同株式会社の育成計画はあるものの、まだ多くが国有である。立坑式よりコストがかからないため、採掘は露天掘りで行っている所が大部分であるが、露天掘りは破壊の度合いが大きく、風景を一変させ、河川を汚す。国内市場は深刻な石炭不足に苦しんでいるに関わらず、ヤクートからはここ何年も、良質のコークス用石炭が輸出されている。サハリン州と沿海地方に新しい炭坑を開発し、日本に輸出する計画がある。

鉱業

漁業、林業と共にロシア極東地域の産業生産の大きな一翼を担うのが鉱業である。鉱石は主にダイヤモンド、金、銀、プラチナ、スズ、鉛、タングステン、アンチモンが採れるが、採掘にともない大量の原料が無駄になっている点は鉱業も他産業と変わらない。採掘現場での損失は少なく見ても20%、濃縮処理での損失は平均50%に達する。
 国有事業解体から共同株式会社設立への動きは、鉱業の方が漁業や林業より早かった。1994年には既に推定で350-600の事業所が採掘許可を取得しており、金の生産高が総生産高に占める比率は、カルテル (独立の採掘チーム) が50%、旧国有企業 (共同株式会社) が43%、新しい商業ベンチャーが7%であった。
 極東ロシアはロシアの金総生産高の69%を産出する。連邦補助が無くなったため、費用、特に新しい鉱脈を探す探鉱の費用の高騰に悩み、増産に必要な新しい機械を購入する余裕のない金採掘業者は、西洋の技術と資本を持ってくる外国企業の誘致を望んでいる。これを実現させようと、ロシアの鉱山会社は、外国の投資家をもっと惹きつけられるようにロシア連邦の鉱業法と税制の改正を求めている。西洋諸国の企業は、高い税金と不明瞭な規制がロシア鉱業への投資を妨げていると指摘しているからである。地域レベルではまだ包括的な鉱業法規の策定に至っていないので、これが整備されれば (外国の企業もロシアの企業も含めて) 鉱山会社に厳しい環境規制を守らせる一助となるであろう。
 極東ロシアには、マガダン州のクバカ・プロジェクト (同州の現在の年間生産高のうち3分の1に当たる年間10トンの採掘計画を持つ) 、カムチャツカ中央部のカムゴールド・ベンチャー (米国とカナダとロシアの企業のコンソーシアムで、金30トンの産出計画を持つ) などの金採掘の大型ジョイントベンチャーがある。

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シベリア横断鉄道の建設

シベリアとロシア極東部の産業開発の真の契機となったのは、1891年-1905年に行われたシベリア横断鉄道の建設である。シベリア横断鉄道は現在、モスクワからウラジオストクまで全長9,000キロメートルを走る。この鉄道建設の目的は、植民地化を進めること、軍隊と物資を迅速に運び、当時軍事力を強めていた中国と日本からロシアの東海岸を防衛すること、原材料を採集して国内と輸出に回すため鉄道沿線に産業の中心となる町を開発することにあった。極東ロシア全域で最も豊かな流域はアムール川流域であったから、その開発が最も重要だった。1857年初頭、富豪の米国人ペリー・マクドナー・コリンズはアムール川流域が秘める潜在力を見抜き、西方のアムール川源流と太平洋を結ぶ鉄道の建設を提案した。アムール川はコリンズの目に " 北アジアの模糊とした深みへと商業活動を導き入れ、貿易と文明に新世界を開く運命の流れ " と映ったのである。
 建設に携わったのは服役囚達であり、初めは1897年に、ウラジオストクとブラゴヴェシチェンスク (アムール州) の間が開通した。ウラジオストク ("東方の支配者" という意味) は急成長し、20世紀を迎える頃には人口約30,000、軍港と商業港のある繁華な町になっていた。シベリア横断鉄道の沿線に産業の中心地がいくつか生まれ、1910年にはすでに、英国の複数の金採掘企業からベンチャー融資が行われており、インターナショナル・ハーベスト・カンパニーがあらゆる種類の農機具をこの土地で販売していた。

共産党の台頭

しかしボルシェビキ革命により外国からの投資ははたと止んだ。共産党指導者が全ての産業を国の管理下に置き、アジア太平洋社会との結びつきを断ったからである。全産業の国有化は、1924年に権力の座についたスターリンの下で勢いを得、急速に進んだ。スターリンは5ヶ年計画を連続して打ち出し、農業中心の経済から巨大な産業コンビナートへとシベリアを変貌させて西洋に追いつこうとしたのである。"工業化は一つの新しい教義だった。工場はその教義の大聖堂であり、生産目標を達成して未来へと道を導くエリート労働者はその僧侶だった "この猛進撃に火を付けるため、スターリンは、奴隷労働者を供給するラーゲリ(強制収容所)制度を完成した。ロシア市民は"国家反逆罪"という理由で逮捕されたから、誰一人として安全ではいられなかった。3種類の収容所が設けられた−1)工場と農業労働のコロニー、2)木材伐採搬出と鉱山労働の収容所、3)他の収容所で反抗した者の懲罰用収容所、この3つである。収容所は極東部全域に設けられた−ハバロフスク、ウラジオストク、サハリン、カムチャツカ、金産出地のコリマ川流域 (マガダン州) 。マガダンとコムソモルスカ-オン-アムールの町々を建設したのは収容所の労働者達である。収容所の労働者が最も多かった1930年代、ラーゲリ"群島" には2,100万人以上の服役者がいた。スターリンは、奴隷労働に9分9厘を依存して一つの経済を創り出したのであり、"大恐怖の年"の1937年には推定で700万人が流刑の憂き目に合い、収容所を満たした。年間死亡率が25%にも達していたのである。推定で1,200万−1,500万の人が労働収容所で生命を奪われたが、その約5分の1はコリマ川流域で生じた。
 1953年にスターリンが死ぬと多数の受刑者が解放されたが、コリマ-マガダン収容所には1956年になっても、いわゆる政治犯が100万人以上残っていた。1961年、経済が低迷し、不満が高まる中で、フルシチョフ大統領はラーゲリ制度をわずかばかり改正、次の規定を定めた−"1ヶ月を超えて適職に就かない者をロシアに伝わる流刑地の一つに2-5年間送ることができる"。ゴルバチョフ政権下でもラーゲリ制度は残っていたが、スターリン時代のラーゲリ制度のような恐ろしい数になることはなかった。
 スターリン後は、ソビエト帝国がほぼ明らかに自由労働に戻り、ラーゲリ前の資源採掘 "都市"が産業センターとして利用された。スターリンが始めた大規模開発プロジェクトは継続され、巨大な水力発電ダムは時代の流れになった。"ダムは、軍隊やロケットと同じくロシアの力の象徴である。人間の自然征服を具現するものであり、共産主義の教条である"しかしダムは何百万ヘクタールもの森林を水びたしにし、現地の居住民や先住民に転居を強い、漁場を破壊した。ロシア国民が例外なくこういうプロジェクトを喜んでいるわけではない。
ダムにとどまらず、ソビエトの計画立案者達は新しい鉄道を夢みた。バイカル-アムール鉄道である。シベリア鉄道の北側を、ハバロフスクまでそれに並行して走り、膨大な鉱物資源と森林開発を可能にするはずであった。スターリンはこのプロジェクトに手をつけたが、第二次世界大戦が勃発、ヨーロッパロシアでは戦争に使う鉄が払底したためこの計画を断念した。このプロジェクトは1974年に再開され、250億米ドルをつぎ込んで1989年に完成した。当初の計画では木材の伐採搬出と鉱業の拠点となる都市を沿線に建設するはずだったが、その前にモスクワの資金が尽きてしまったため、この鉄道は経済的に破綻してしまっている。この鉄道建設が原因で何度か起こった大火が残した焦土は、このプロジェクトの犠牲になった生態系を痛ましく思い起こさせる。建設工事に先だって環境影響アセスメントが行われなかった事実は紛れもない。
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