食卓からみる世界-変わる環境と暮らし第25回 エチオピアのインジェラと食を巡るコミュニケーション

2021年08月15日グローバルネット2021年8月号

国立民族学博物館 人類基礎理論研究部 准教授
川瀬 慈(かわせ いつし)

エチオピア連邦民主共和国の多種多様な食文化の中でも、インジェラは代表的な存在であるといえよう。日本の食卓でのご飯に相当するといっても過言ではなく、大多数のエチオピア人にとっての主食である。

私は2001年より、人類学研究のフィールドワークのためエチオピア北部のアムハラ州に通ってきた。アフリカ大陸の北東部に位置するエチオピアは日本の国土面積の約3倍の広さを持ち、80を超える民族が存在する。言語については100を超えるといわれ、多様な文化、言語を育む国家である。

コーヒー好きの皆さんにとっては、喫茶店やスターバックスコーヒーなどで飲むことができるイルガチェフやモカなど、エチオピア産のコーヒー豆はなじみが深い。また、1964年の東京オリンピック男子マラソンで優勝したアベベ・ビキラ選手を筆頭とする、世界的な長距離ランナーたちの顔を思い浮かべる人も多い。近年、紛争の絶えなかった隣国エリトリアとの外交の再開をはじめとする政治的な手腕が評価され、アビィ・アハメド・アリ首相がノーベル平和賞を受賞したことはわれわれの記憶に新しい。しかし残念ながら、昨年の11月、エチオピア連邦政府軍と、かつて長らく政権の中枢に君臨してきたティグライ人民解放戦線(TPLF)が北部で衝突を起こしてから、エチオピアの政治状況は決して安定しているとは言い難い。

そんなエチオピアであるが、私自身、主食のインジェラの何に惹かれてきたか、と問われれば、その独特の酸味、と答えるであろう。ここでは、あまり日本人になじみのないインジェラと、インジェラを食す際の重要なコミュニケーションを中心に紹介することにする。

●インジェラの作り方とおかず

初めてインジェラを見た人は、薄い灰色をしたクレープだと思うかもしれない。インジェラの表面には発酵によってできた細かい穴がたくさんある。あまり、良い表現ではないが、日本人の旅行客にはインジェラを指して雑巾のようだ、と述べる者も少なくない。一般的な調理方法は、テフ(Eragrostis tef)と呼ばれるイネ科の穀物の粉を水とこねてバケツの中に数日間放置し、発酵させ、その後、さらに水を少し加えて液状にし、さらに発酵を進める。この生地をクレープのように焼いて完成だ。このインジェラで野菜や肉のおかずを包んで食べる。

家庭で食される最も一般的な野菜のおかずはシェロワットと呼ばれる。これは、いくつかの種類の豆の粉を煮込んだシチューである。カボチャやジャガイモも、インジェラのおかずとしてよく見かける。また都会のレストランでは、豆類の他にも、キャベツ、ビーツなど色とりどりの野菜をインジェラの上に乗せて出すイェツォム・バイヤネットを食べる。農村では、ヨーグルトや牛乳をインジェラと共に食すこともしばしば。おかずの調理にはスパイスも欠かせない。例えば、唐辛子を中心とした真っ赤なミックススパイスのバルバレ、より辛い乾燥唐辛子を使用するミトゥミタ、サナフィッチと呼ばれるマスタードなどがある。

肉のおかずの代表格は牛、羊、鶏である。客人をもてなす際に出されるもっとも代表的なごちそうとされるドロワットは、鶏肉を玉ネギやトウガラシ、ゆで卵と煮込む。また、意外に思われるかもしれないが、エチオピアでは生肉をインジェラとともに食べる習慣がある。よく知られた生肉料理には、生肉をタレでもんだマリネのゴラドゥゴラドゥ、生肉をそのまま食べるコルトゥ・シガなどが挙げられる。コルトゥ・シガは、肉の塊を手づかみで削ぎとりながらインジェラで包んで食べる。エチオピアにおける生肉食が始まった起源についてはさまざまな説がある。例えば、血のしたたる生肉を食べることが勇壮な戦士の証しであった、とか戦場で肉を調理すると匂いや煙が広がり、敵に居場所を簡単に突き止められるので、調理せずに食べるようになったなどの話をよく聞く。国土の大部分が冷涼な高原という地理的特性も生肉食の慣習を考える上で無視できないのかもしれない。

インジェラと豆類、生肉のおかず

●インジェラとコミュニケーション

インジェラについては、その豊富なおかずの種類だけでなく、食を巡るコミュニケーションに関する話題が尽きない。インジェラを食べる際の、極めて重要なマナーが存在するのだ。まずグルシャ。グルシャは、食事の場に同席する友人や親族など、親しい者の口元に、手でインジェラを運び、食べさせる作法のことを言う。この行為は友情、親愛、歓迎の表現である。そのため、グルシャによって、インジェラを食べることを勧められた者は、それを断ることは好ましいこととされない。さらにグルシャによってインジェラを食べさせられた側は、相手にもグルシャを返すことが求められる。腹いっぱいインジェラを食べた直後に、このグルシャが始まることが多々ある。複数の友人たちとの会食の際は、このグルシャが始まる可能性を常に頭の片隅に置き、すぐに腹いっぱいにならぬよう、食べるペースに気を配らねばならない。

食卓におけるグルシャの様子

インジェラを食べる際、さらに大事なコミュニケーションがある。それがインネブラ、である。エチオピアでは、人が食事をする場に出くわすと「インネブラ!(現地のアムハラ語で“さあ、共に食べよう”という意味)」という言葉をしょっちゅう耳にすることになる。しかし、声を掛けられた側は、腹がすいていたとしても、この誘いに簡単に乗ってはいけないのだ。「実は今、食べたばかりだ」とか「ちょっと急いでいるので時間がない」など、何らかの建前を述べ、この誘いを断ることがいわば社会的な美徳とされる。インネブラを文字通り受け、インジェラに手を付けるのは卑しく、非常識であるとされる。インジェラを食べることを巡る本音と建前に翻弄されつつも、その酸っぱさは、すぐに病みつきになってしまうから不思議である。

●インジェラを巡る近年の変化

エチオピアの食生活において重要なインジェラは、アムハラ語のことわざ、さらには地域社会の諸儀礼の場で音楽芸能を担う楽師たちの歌の中にもよく出てくる。そこではインジェラが“命”、“生活”、“富”、“恋人”などを意味するメタファーとして登場する。庶民の生活にとってインジェラがいかに大切かをあたかも物語るかのようだ。

さて、そんなインジェラであるが、アムハラ州では近年、ユーカリの植林に伴い、主要な材料である、テフの畑地が減少するという傾向が見受けられる。ユーカリは19世紀にエチオピアに入ってきた比較的新しい樹木である。生長は早く、数年で建築の資材となり良い値が付くため、現金を手っ取り早く獲得するのに都合が良い。減少するテフの畑地に対し、栽培に大きな手間がかからず、しかも収量の多いトウモロコシを栽培する農家も増えている(上村2021)。農家ではよく、テフ以外にも、トウモロコシ、オオムギ、シコクビエなどをインジェラの材料に混ぜることがある。これらのインジェラはより酸味が増し、その見た目はテフでできた灰色のインジェラより黒味が増す。テフの畑地の減少という傾向とインジェラの材料や味の変化については、今後も注意深く見守っていきたいと思う。

参考文献:上村知春『エチオピア・アムハラ州における食生活―食と健やかさの民族誌―』(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科、博士学位申請論文、2021年)

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