21世紀の新環境政策論 人間と地球のための持続可能な経済とは第70回 持続可能性とは何かについて更に考える

2025年03月14日グローバルネット2025年3月号

武蔵野大学名誉教授、元環境省職員
一方井 誠治(いっかたい せいじ)

デイリーの原則はトートロジーか

「持続可能な発展の3原則」(再生可能資源は再生可能なペースで使うこと、非再生可能資源は再生可能資源で代替可能なペースで使うこと、廃棄物は、自然が受け入れ浄化できるペースで排出すること)で知られているハーマン・デイリー(1938-2022)が若き頃、この原則について米国のある学会で報告したときのエピソードについて聞いたことがあります。物理学系の学生が、「あなたが提唱する原則はトートロジー(同義反復)ではないのか、つまり持続可能な発展の条件は、持続可能な行動をとることだと言っているに過ぎないのではないか」と質問したそうです。

そのときデイリーが何と答えたかについては私は聞き漏らしたのですが、彼の「3原則」は、経済成長が続く1970-80年代の米国の大学の中で、総じて不評であり、デイリーは次第に大学での居場所を失い、その後世界銀行に転じることとなったといいます。

これは推測ですが、おそらく質問者の学生が言いたかったことは、「デイリーの原則は、昔ながらの自然物を人間が利用することを基本とする古臭い生産システムやライフスタイルを維持することを想起させ、人類が成し遂げてきた、また、今後もさらに続く科学技術の進歩とその成果の上に築く、新たな(持続可能な)社会の可能性を過少評価している」ということだったのではないかと思います。

デイリーの持続可能性の考え方は、一定の時間サイクルの中で人間が利用する諸資源が循環し、安定的に元の姿に戻ることが基本となっています。そのため、いったん使ってしまうと元に戻らなくなってしまう、あるいは元に戻るのに極めて長い時間を要する資源は「非再生可能資源」とされ、これに多く依拠した物質の流れは循環を阻害し、持続可能性が低下するという考え方です。

これは、地球誕生以来長い時間をかけて自然が形作ってきた生態系の仕組みをベースとしており、このことが、デイリーが「エコロジー経済学者」と呼ばれている理由でもあります。

人間の営みのどこまでが持続可能か

言うまでもなく、私を含め現代に生きる人々は、これまで形作られてきた科学技術と経済システムの恩恵を多かれ少なかれ受けており、私たちの衣食住をはじめとする生活はかつてない〈豊かな〉ものになってきていると言ってよいと思います。しかも、その変化の度合いは近年ますます加速しているように感じます。

一方で、気候変動が進み、地球規模での生態系の劣化が進んでいることは科学的にはもはや疑う余地がない状況になってきており、化石燃料を中心としたエネルギー使用をはじめとする、人間の営みと気候変動の密接な関わりも明らかになっています。そのような状況の中で、私たちはどのような価値観や考え方の下に持続可能性について判断していけば良いのかという大きな課題に直面していると私は思います。

ちょっと話は飛びますが、今から30年前、私が環境庁(当時)で閣議決定文書である環境白書の作成を担当していたとき、平成7年版環境白書総説第1章第3節「現代文明と地球環境問題」で、地球環境の限界に関して以下の記述をしたことがあります。

「それでは、地理的拡大を地球の外にまで行うことにより、地球環境の限界を乗り越えることはできないだろうか。例えば火星に人工的に人類の居住可能な空間を作り、そこに大量に人類を移住させることはどうであろうか。しかし、現在直面している地球環境問題を解決するという観点からは、時間的にもこのようなやり方が引き合うものになる可能性は少ないように思われる。その意味では、当面宇宙開発により得た知識や技術を、地球環境の維持のために役立てるという考え方こそが重要となろう」

閣議決定文書はすべての政府機関が異議なしと認めた公式文書であり、当時はこのような考え方が少なくとも日本では妥当なものとされたのです。しかしながら、現代では、スペースX社のイーロン・マスク氏が火星移住計画を発表し実施に向けて準備を進めており、おそらく同じ文章を今、閣議に提出しても通らない可能性が高いように思います。

私自身は、宇宙と人間の壮大な謎については大きな興味を持っており、それらの謎に挑む科学者や技術者の挑戦には深い敬意を持っています。しかしながら、マスク氏のような地球環境問題の解決を後回しにした、富裕層相手の宇宙旅行計画や、地球環境における生命維持システムとしての生態系の計り知れない価値や奥深さの維持・回復の緊急性・重要性を過少評価し、技術を過大評価しているとしか思えない火星移住を目的に掲げたプロジェクトには賛成できません。

話を元に戻すと、私たちが何に依拠して持続可能性を考えていくべきかは、デイリーの第2原則がそのヒントを与えていると思います。デイリーは決して非再生可能資源の使用を直ちに止めろと言っているのではなく、どんなに科学技術や経済システムが進歩しようが「生態系の中の一生物としての人間の生存基盤は、あくまで再生可能資源であり」科学技術等の進歩は「非再生可能資源の過剰使用につながる可能性があることをおそれを持って常に意識せよ」と言っているのだと思います。さらに言えば、「科学技術や経済システムの進歩の方向について、持続可能性に寄与するものであるか反するものであるかを慎重に峻別せよ」と言っているのだと思います。その意味で、EUが進めている、諸技術を気候変動等の観点から評価するEUタクソノミーの考え方は意味のある大事なものであると思います。

持続可能性と自然の中の人間

2024年11月10付の毎日新聞のコラム欄「時代の風」に掲載された人類学者長谷川眞理子氏の『激変する日本人の暮らし~「自然と一体を」失う貧しさ』を読んで私は深く共感しました。氏はAIとロボットの台頭に関し、それをコントロールするための知識習得の重要性は認めつつ次のように述べています。「このようなAIとロボットが活躍する未来像の中に自然はひとつも入っていない~中略~この未来像を考えている人たちは現時点でも自然を接点を持った暮らしをしてはいないのではないか? そもそも、昨今の都会では自然との接触が激減している。これは貧しいことだ」

このような考え方は、近代経済学の基礎を築いた経済学者の一人である英国のJ.S.ミル(1806-1873)も自然の豊かさと喜びに関して「富と人口の増加が」それを「ことごとく取り除いてしまう」可能性について著書の「経済学原理」の中で深く憂う記述を残しています。

問題は、デイリーの考え方の基礎となる、長谷川氏やミルのような人と自然との一体感の豊かさやその重要性に深く共感する人々が、先進国といわれる〈豊かな〉国々でも減ってきているのではないかということです。その一方で、現在の生産やライフスタイルを変えなくても新たな技術開発で地球環境問題は一挙に解決できるとの考え方が増えているのではないかということです。例えば、大気中に大量の微粒子を放出して地球に届く太陽光を遮ったり、海に大量の鉄粉をまくことにより二酸化炭素吸収を高めようとする「ジオ・エンジニアリング」、あるいは、エネルギーと水と二酸化炭素から炭水化物を人工的に生成する「人工光合成技術」、環境負荷がより少なく二酸化炭素を出さない「核融合発電技術」などです。これらの技術の利用については、一見、問題解決を図るための良い試みに見えるかもしれませんが、これまでの地球生態系が総体として精緻に作り上げてきた生物の生存基盤システムを根本的に変えてしまい、取り返しのつかない副作用を生じさせてしまう恐れがあることから、私は、極めて慎重になるべきと考えています。

冒頭の学会での、持続可能な3原則についての質問者へのデイリーの回答は伝わっていませんが、私だったら「現在の社会の動きは明らかに持続可能でないと思うが、あなたはこれが持続可能だと思っているのか。持続可能でない動きをどうやって持続可能な結果につなげるのか」と逆質問をしたいと思いました。

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