フォーラム随想1日だけのシンガポール
2025年05月21日グローバルネット2025年5月号
長崎大学大学院プラネタリーヘルス学環、熱帯医学・グローバルヘルス研究科教授
渡辺 知保(わたなべ ちほ)
シンガポールのチャンギ空港はアジアの空路の主要ハブの一つであり、アジアでフィールドワークを行っていた頃はかなりお世話になったが、国そのものにはなぜか縁がなく、空港の外には出たことがなかった。シンガポールというと、日本よりも所得水準が高く、さまざまな先進技術や情報において世界的にも大きな集積地の一つ、ランクの高い教育研究機関も多いという印象を持っていた。一方で、東京23区に毛が生えた程度の面積に、23区の半分ほどの人が住む小さな国でもある。つまり東京23区が一つの国、しかも多民族国家として機能しているわけで、それが60年続いていること自体ちょっと不思議な気がしていた。
4月初めにシンガポール開催の会合に出席する機会があり、初めて空港を出て入国した。1日目は朝から晩まで会議、食事も含めてホテルに缶詰めだったので「シンガポールに来た」感は希薄だったが、翌日は夜行便での帰国で、知人にいろいろ連れて行ってもらい(マーライオンも見て)何とか「シンガポールに行ってきました」と言える滞在になった。一日観光客の表層的な視線に過ぎないが、興味深く思ったことをご紹介したい。
まず聞いて驚いたのは、シンガポールでは家も車も所有すること自体が極めて難しく、基本が国からの借家(地)と借車の社会だということで、空間的に大きな財産を個人が所有することが強く制限されていることになる。知人の車も10年分の所有権(かなりの高額)があるだけで、期限が来たらまた権利を更新するか手放すことになるという。市内を走っていても立派なバスを頻繁に見かけるし、地下鉄もまた23区内並みに充実しているので、車など不要といえば不要だが、法整備が徹底している。日本なら国、県、市にそれぞれ政府があるところが、シンガポールには1つしかないというシンプルさも、こういう思い切った政策を可能にしているのだろう。昼は市内の各所にある観光名所である屋台フードコート(Hawker)で、たくさんの“ミシュランご推薦”の看板に囲まれながらうまいラーメンを食べた。屋台からテーブルに食事を運び、食べ終えたら食器を所定の場所に戻す。よくあるセルフサービスのスタイルだが、食器の返却をサボって立ち去ってしまうと5万円近い罰金を取られることがこれも法律で決まっていて、フードコートのあちらこちらに警告が貼られている。街中でごみを捨てたり、うかつに信号を守らなかったりしても罰金がかかってくる。政治体制としては民主主義で、議会にも少数民族(75%を占める中華系以外のマレー系やインド系)の議席枠を確保する「クオータ制」が導入されていたりするが、いろいろと締め付けの厳しそうな社会でもある。
昼食後に世界遺産のBotanical Gardenを訪ねた。知人の話では、最近(特に海外から来る人の間で)はむしろGardens by the Bayの方が人気らしい。Botanical Garden は広大な面積を持ち、限られた時間の中ではほんの一部しか行けなかったが、大きな葉と素晴らしく高くて深い樹冠のある“熱帯的”な樹林は、日本の植物園の光景とはまるで異なる。この中にある洋ラン園は、品種の豊富さや解説が充実している点でも見事だったが、高山だけに生育するランを展示する、温室ならぬ“涼室”があったのには、さすが熱帯の植物園と感心させられた。意外に緑が多いのがシンガポールの特徴だと聞いていたが、到着日に通った空港から都心部に向かう道路の左側にはずっと濃い緑に覆われた公園が続き、多くのサイクリストが走っていた。
わずかな間に見聞きしたことの中には、シンガポールの持続可能性に貢献するものも阻害するものもあるのだろう。国土もわずか、食料自給率も格段に低く、自前の水源や電力源も乏しいこの国がさまざまな意味で世界のトップランナーの一角を占めていることは、やっぱり不思議である。