フォーラム随想去り行く人たち
2025年10月17日グローバルネット2025年10月号
(一財)地球・人間環境フォーラム理事長
炭谷 茂(すみたに しげる)
最近次々にお世話になった人たちの悲報を受ける。この年齢になれば、仕方がないのだろうか。
河幹夫さんは、旧厚生省の後輩だったが、私と比較できないほど崇高な福祉哲学を持っていた。学生時代から点字活動など本格的な障害者支援を行っていたので、経験の積み重ねによって福祉哲学を形成してきたのだろう。熱心なクリスチャンだったことが、福祉哲学を鋼のように強固にした。話術のうまさは、教会で交わされる会話で養われたと感じていた。
近親者に与謝野晶子のライバルだった歌人の山川登美子がいたという。山川登美子は、福井県小浜市に生まれた。彼も福井県出身だったから、地元の関係者から山川登美子に関して残された話を聞いていたに違いない。彼は根からのロマンチストだったのは、これ故だろう。
旧厚生省時代は仕事の面で大いに助けてくれた。私が役人人生のすべてを投入して行った社会福祉構造改革は、3年間要したが、実現できたのは、直属の課長として、理想論を掲げて突っ走る私を必死に支えてくれたからに他ならない。
退官後もずっと重い病気と闘いながら、亡くなるまで精力的に仕事に従事していた。その間仕事をともにすることがあったが、亡くなる直前まで前向きで明るかったのは、公務員時代から少しも変わらなかった。
塚口伍喜夫さんは、根からのソーシャルワーカーだった。長く兵庫県社会福祉協議会に勤務していた。初めて会ったのは、28年前、旧厚生省社会・援護局長の時で、塚口さんは同会の事務局長の要職だった。当時から活発な活動をされ、意見交換を交わすことが多かった。いつも気が付かないポイントをズバリと指摘してくれた。
ある人から大学で福祉の先生の推薦依頼を受けたとき、私は迷わず塚口さんを推薦した。豊富な経験を踏まえ素晴らしい教育をされたと聞いて、推薦者として誇らしく思った。
一昨年秋、彼から神戸市での高齢者介護に関する講演の依頼を受けた。参加者は、200人程度で大変熱心だったので、思わず話に力が入った。昨年秋、再び同じ依頼を受けた。準備を十分にして臨み、重ねての依頼に応えた。
すると、彼から講演をブックレットにしたいと連絡を受けた。私の拙い講演に価値があるとは思えなかったが、今年5月に出版された。それと前後するかのように塚口さんの突然の訃報が届いた。私への彼からの最後の暖かい贈り物になった。
7月中旬に届いた永戸祐三さんの急逝の報に驚いた。今年初めから「是非ともゆっくり話したいから」と申し出を度々受けていたが、両者の日程が合わずにとうとう実現しなかった。その頃療養中だったことを後日知った。それにもかかわらず私との面談を望まれたのは、彼が情熱を注いで発足させた介護保険制度や労働者協同組合法についての思いを伝えたかったからだろう。
永戸さんは、私と同世代だが、大学生時代は学生運動のリーダーとして全国的に名をはせた。私は25年ほど前からソーシャルファーム設立運動をしているが、彼が設立した労働者協同組合と理念が共通していたので、頻繁に意見交換をしていた。
その後東京・大田区や寄せ場(日雇い労働の求職者と求人業者が集まる場所)である横浜市寿町のプロジェクトでも一緒になった。ある時「介護保険が制定した時の理想が、最近否定されてきたようで残念だ」と私にぽつりと話した。まったく同じことを心配していた私と意見が一致した。昨年秋、彼が介護保険の危機を訴えるために発行した本の執筆を引き受けた。
さらに広く社会に訴えるため、今年10月中旬に永戸さんと私との対談をメインにした集会が計画されていた。永戸さんが亡くなった今、彼の伝えたかったことを私一人で話したいと思っている。これが残された私の使命だろう。