21世紀の新環境政策論 ~人間と地球のための持続可能な経済とは第9回/新古典派経済学から制度主義へ

2015年12月15日グローバルネット2015年12月号

千葉大学教授
倉阪 秀史(くらさか ひでふみ)

宇沢ゼミと環境省の先輩である松下和夫先生と一方井誠治先生から引き継いで、今後4回を倉阪が担当します。私は、1984年から87年にかけて宇沢ゼミに所属し、87年に環境庁(当時)に入庁しました。98年には千葉大学に移り、環境経済と環境政策、政策・合意形成論などを教えています。初回は、新しい経済学の枠組みを考える手掛かりとなるよう、宇沢弘文先生の制度主義の内容を振り返ることにします。

倫理的社会的基準なき新古典派経済学

宇沢先生の書かれた書物をたどっていくと、先生は日本に帰国後、新古典派経済学から制度主義へ展開されていったことがわかります。

1977年に公刊された『科学者の疑義 経済学と生命科学の対話』(朝日出版社)では、先生は分子生物学者の渡辺格氏との対話の中で、新古典派経済学を次のように批判しています。「新古典派は、生産関係とか環境、あるいは政治的な制度とは全く無関係に経済的な法則が働いているのだと考えるわけです」、「新古典派的な考え方を延長していくと、どういう行動がいいかという、倫理的社会的な基準は否定されていくわけです。何が基準かというと結局市場価格なんですね」。宇沢ゼミ時代にゼミの後の飲み会で『選択の自由』のミルトン・フリードマンや『人的資本』のゲーリー・ベッカーに対する批判を繰り返し聞かされたものですが、結婚や自殺といった事項まで経済学的に取り扱うことに対する倫理感の欠如を問題にされていたように思います。

先の対話で、先生は「現在の矛盾を生み出している、背後にある制度的条件を問題にしたいのです」と述べられています。ただ、この対話では、制度主義についての言及はありません。

本連載の初回で松下先生が紹介された「社会的共通資本」の考え方も、当初は、新古典派経済学の修正という形で提示されました。1977年の『近代経済学の再検討』(岩波新書)では、市民の基本的権利に関連する希少資源ストックについては、私有化が許されず、社会的に管理される必要があるという考え方のもとで、このような希少資源ストックを「社会的共通資本」と位置付けています。そして、この資本が十分に生産されるとともに、市民に公平に分配されるよう、生産者には高い価格を提示し、消費者には安い価格を提示する「二重価格制」が必要だと論じ、その間を財政支出で補うという議論が展開されています。つまり、ここでは社会的共通資本は生産される対象として考えられています。このときの政府の役割は、市民の基本的権利に関する社会的合意を形成するとともに、それを支える財・サービスの重要度に応じて「二重価格」の差額の大きさを決定するものとなります。

資本主義と社会主義を乗り越える制度主義

『近代経済学の再検討』においても、新古典派経済学の人間観を批判する箇所などで制度学派の祖であるソースタイン・ヴェブレンが引用されていますが、その後、宇沢先生は資本主義と社会主義を乗り越えるものとして制度主義に注目し、社会的共通資本の考え方を制度主義の中に位置付けていきます。

1994年のシンポジウムの記録である『社会の現実と経済学』(岩波書店)では、制度主義について、「その時々の歴史的・社会的あるいは文化的、さらに自然的な条件の下で、日本なら日本の現状にとっていちばん望ましい経済制度を、その時々に、さまざまな政治的あるいは思想的なプロセスを経て、そして国民的な合意を得て、その制度の実現を図っていくという意味です」と先生は述べています。そして、この考え方は、「ソースタイン・ヴェブレンが提起した問題意識を、多少かたちを変えて表現したもの」としています。そして、「制度主義というときに、具体的にいちばん中心になるのは、社会的共通資本の概念です」と位置付けられたのです。

ここに至って、人によって生産され、生産過程と消費過程に投入される希少資源としての位置付けが弱まり、二重価格論にも触れられなくなっていきました。

2000年の『社会的共通資本』(岩波新書)では、二重価格論の紹介はありません。同書では、制度主義において、社会的共通資本は「分権的市場経済制度が円滑に機能し、実質的所得分配が安定的となるような制度的諸条件である」と捉えられています。生産や消費に投入される資源ではなく、経済活動を外から規定するものとして、社会的共通資本を捉えられるようになったといえます。

自然資本の捉え方の変遷

社会的共通資本は、自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本の三つの範疇からなります。このうち、自然環境の捉え方についても、新古典派経済学の呪縛から解き放たれる過程が見て取れます。

1977年の『近代経済学の再検討』においては、自然資本についても、道路や港湾と同じように建設されるものとして捉えられていました。例えば、「自然的な社会的共通資本の場合には、一般的にいって、その建設のために大きな費用を要するものであって、再生産が必ずしも容易ではない」、「再生産が非常に困難で費用が多くかかるものが自然的な共通資本であり、それに反して比較的容易に再生産することができるものが社会環境的な共通資本であると考えてもよいであろう」という記述があります。非常に困難で費用が掛かるものですが、人間によって建設されるものの一種として自然環境が捉えられていたのです。

一方、2000年の『社会的共通資本』においては、人間が建設するものとしてではなく、エコロジカルな要因で規定されるものとしての自然環境という捉え方が示されています。例えば、「自然環境について、もっとも特徴的な性質は、その再生産のプロセスが、生物学的ないしはエコロジカルな要因によって規定されていることである」、「自然資本のストックの時間的経過にともなう変化は、生物学的、エコロジカル、気象的な諸条件によって影響され、きわめて複雑な様相を呈する」という記述に見られます。

市場での決定に代わるものは何か

では、経済活動を外から規定する社会的共通資本は誰によってどのように管理されるべきなのでしょうか。

『社会的共通資本』において、宇沢先生は、「制度主義を具現化するものとしての社会的共通資本は決して、国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない」と述べています。そして、資本主義や社会主義を超える仕組みとして、職業的専門家による管理とコモンズによる管理に注目します。

『社会的共通資本』では、「社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理・運営されなければならない」とされています。また、自然環境については、「国家レベルの管理ではなくて、むしろ地域的な、それぞれの社会的共通資本あるいは自然環境にふさわしいような管理組織が考えられていきます」(『社会の現実と経済学』)としています。

「社会的共通資本のカテゴリーに応じて、それぞれふさわしい制度的な、組織的な管理形態があって、それはあくまでも国の統治機構の一部としての機構ではなくて、むしろそれを利用し、そこで生活する人々の視点からつくり出されていく、あるいはそういった視点に立って管理のあり方が規定されていく。そういった社会的な制度を中心としてこの制度主義の経済体制を考えていくべきではないか」(前掲書)と、市場主義と官僚主義を超えた制度主義が構想されていました。

制度主義の背景には、「さまざまな財・サービスの生産、交換にかんする制度的な諸要因によって、人々の行動規範がおのずから制約される」(『経済学の考え方』(岩波新書1988年))とする「歴史学派ないしは制度学派」の考え方があります。しかし、この領域は、経済学よりは、政治学や政策学におけるガバナンス論や合意形成論においてより「知の蓄積」が行われてきた領域であり、このために経済学の範疇を踏み越えていくことになっていたのではないでしょうか。

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