日本の沿岸を歩く~海幸と人と環境と第26回 ―鹿児島・串木野 遠洋マグロはえ縄漁を育んだ進取の気性 

2019年05月15日グローバルネット2019年5月号

ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)

枕崎から北へ60kmほどのところにある、いちき串木野市に着いた。途中には日本三大砂浜の吹上浜があり、その美しい海岸線の先にある水産業の町。人口は約2万8,000人。遠洋マグロはえ縄漁で知られ、いちき串木野市の遠洋マグロはえ縄漁船34隻は、市町村単位で日本一の数を誇る。マグロはえ縄漁の歴史も古い。入り口の巨大なマグロの頭のモニュメントに迎えられて漁協に入り、代表理事組合長の濵﨑義文さんに話を聞いた。

漁協の入り口の巨大なマグロの頭のモニュメント

●主要種はミナミマグロ

漁協所属の400~500tの大型遠洋マグロ漁船が操業しているのは太平洋、インド洋、大西洋など世界各地。高級魚種であるクロマグロ(本マグロ)とミナミマグロ、さらにメバチマグロ、キハダマグロ、ビンナガマグロなどを漁獲するが、いちき串木野市の34隻のうち25隻はミナミマグロを追う。

主な漁場である南アフリカ共和国周辺漁場に出漁する場合、1航海は1年~1年半。船員は飛行機でケープタウンに移動し、うちミナミマグロ漁は50~60日間。長さ150㎞のはえ縄に3,000から3,500の針を付け、6時間ほどかけて仕掛ける。漁獲した後は内臓やえらを取り除き-60℃で急速冷凍する。

悩みの種は、世界中どこにでもいるシャチの食害だという。釣り針を付けた枝縄をぶら下げた幹縄を漁場に仕掛け、引き揚げてみるとマグロの頭だけが針に残っている。それも幹縄に沿ってほぼ全滅状態になるというから驚きだ。シャチの嫌う音などを出してシャチを寄せ付けない装置もあるが、高価で効果も限定的だという。「シャチの行動を予測し、被害を回避する操業が求められます。ITの時代でも船頭(漁労長)の腕の見せどころですよ」と、現場経験20年の濵﨑さん。

天然マグロをめぐっては海洋環境の変化や乱獲などで資源が減少し、クロマグロとミナミマグロ、メバチマグロは国際自然保護連合(IUCN)の絶滅危惧種に指定されている。世界の海洋を管理する「かつお・まぐろ類の地域漁業管理機関(RFMO)」では「中西部太平洋まぐろ類委員会(WCPFC)」や「大西洋まぐろ類保存国際委員会(ICCAT)」など五つの委員会で漁獲量などを規制している。ミナミマグロについて「みなみまぐろ保存委員会(CCSBT)」は最近資源状態が改善されたとするが、危機的状況に変わりはない。濵﨑さんは「漁獲したクロマグロ、ミナミマグロは一匹ずつ水産庁に報告しています」と厳しい規制の現場を語る。

日本人が大好きなマグロは半分以上が輸入されている。その流通に革命をもたらしたのは「超低温保存」と、はえ縄漁船の漁獲物を1社がすべて購入する「一船買い」だといわれる。漁獲方法も進歩を続け、ヘリコプターを搭載して魚群を見つけて一網打尽にする、超巨大まき網漁船まで登場してきた。JAS法で「養殖」として表記される「蓄養マグロ」は、まき網漁で捕獲した若魚や成魚をいけすに移して餌を与え、成長させたものだ。

本誌前月号で紹介したカツオの一本釣りと同じく、「はえ縄漁法」は日本の伝統漁法。はえ縄漁の側から、大規模で環境への負荷の大きい、まき網漁に対する反発は強い。

マグロ事情は、関係国や水産業界などの思惑が複雑に交錯し、真相が見えにくい。『「マグロ争奪戦」の舞台裏』(軍司貞則著)では、ルポでその舞台裏を紹介している。例えば、船主の所在国とは異なる国に船籍を置く便宜置籍船が規制を回避する隠れみのになっていることだ。この本に濵﨑さんが出ているとは思わなかった。1999年、遠洋カツオ・マグロ漁業を行う若手経営者の団体「全国鰹鮪近代化促進協議会(促進会)」の会長だった濵﨑さんが、大手商社を訪ねて便宜置籍船で漁獲したマグロを買い付けているとして是正を要請したのだ。その年の暮れ、この商社はマグロの便宜置籍船からの買い付け全廃を宣言した。これを機に「責任あるまぐろ漁業推進機構(OPRT)」が設立された。

●「まぐろのまち」復活を

串木野では江戸時代には沿岸の魚礁に集まる魚を捕っていた。転機が訪れたのは西南戦争(1877年)の際、魚付林を伐採したときだ。魚群が沖に移動し、漁獲が激減して漁民の生活は苦しくなった。

そこで対馬海峡でサバが多く捕れるという情報を得て、1879(明治12)年、9隻の船団で対馬付近の遠洋サバ漁場を開拓した。4年後には済州島沖のカジキ漁が始まり、もりで仕留める突き棒漁に替えて、はえ縄になった。サバの生き餌を使い、背中のつぼに針掛けする微妙な加減が串木野だけの技術で、他にまねのできないものだった。これが現在のマグロはえ縄漁につながっている。貸してもらった『組合創立100周年記念誌』(2006年)には輝かしい歴史がこれでもかと生き生きした写真でつづられている。

現状に立ち返ると、漁獲した遠洋マグロは大消費地に近い清水港や焼津港(いずれも静岡県)などに水揚げされ、串木野港は蚊帳の外にある。30年前に26社あった経営体は11社、船隻数も73隻から34隻に減った。そこで「まぐろのまち」復活を掲げ、遠洋マグロ漁船の母港基地化実現へ努力が続いている。

2年前、串木野漁港が遠洋ミナミマグロの水揚げ指定港に認定され、ミナミマグロを初めて地元串木野で水揚げすることができた。串木野市漁協が事業主体の「串木野地域遠洋まぐろプロジェクト」には、地域の漁業経営体の再編・統合による新船建造や大規模リニューアル、効率的な遠洋操業への改善、漁協の直接販売など具体的な内容が並ぶ。いよいよ「薩州串木野まぐろ」のブランド化へ本格始動したということか。

串木野漁港(正面が漁協)

●江戸末期に英国へ留学

マグロ漁船の日本人乗組員獲得へも期待をかける。「仕事は厳しいが給料も普通のサラリーマンの数倍。若い時にマグロ漁船に乗り、その後で貨物船などに乗ったり沿岸漁業で働いたりできます」と、濵﨑さんはアピールする。

串木野で歌い継がれてきた民謡『串木野さのさ』は、漁師の仕事を知るヒントになりそうだ。

♪百万の/敵に卑怯は/とらねども/串木野波止場の/別れには/男涙をついほろり/落ちぶれて袖に涙のかかるとき/人の情けの奥ぞ知る…

昔、サバ釣りのときに眠気覚ましに歌われたという歌詞は、労働、男女の愛情、日々の生活などへの漁師の飾らない思いが込められているようだ。

取材が終わると、物産館と観光案内所、レストランが集まった「食彩の里いちきくしきの」へ。串木野市漁協直営の「海鮮まぐろ家」で、まぐろ丼を食し、さつま揚げ(地元では「つけあげ」と呼ぶ)と、まぐろラーメンを買い込んで海沿いに県道43号を西へ進んだ。10kmくらい走ると、薩摩藩英国留学生記念館があった。日本外交の近代化に尽力した寺島宗則、五代友厚など19人の薩摩藩士が1865(元治2)年、英国へ向け旅立った場所だ。漁業同様、ここでも「進取の気性と行動力」の歴史を感じた。

薩摩藩英国留学生記念館から東シナ海の方角を望む

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