フォーラム随想ある師との交流

2020年01月15日グローバルネット2020年1月号

地球・人間環境フォーラム理事長
炭谷 茂(すみたに しげる)

昨年の7月、職場に私の中学時代の恩師である水上哲夫先生から電話がかかってきた。「もしもし、水上ですが」。ちょっとおかしい。声に力がない。いつもは、富山弁で力強く話すのにと思った。

「お変わりありませんか。ところで何か…」と私が問い掛けても口ごもるだけだ。要領を得ないまま、電話は切れた。

ちょっと心配が頭をよぎった。先生はすでにがんを患い、二度手術をしている。85歳を超えた2年ほど前に再び肺にがんが見つかった。病院の医師からは、年齢を考えると手術で除去するよりも経過観察した方が適切だと助言を受けて、この方法を選んだ。

電話のあったひと月前、私は富山県のイオンモール高岡で講演の機会があった。この時は変化が見られず、聞きに来てくれたので、安心はしていた。でも私の嫌な予感は、当たってしまった。電話のあった4ヵ月後、帰らぬ人になった。

あの電話は先生なりの別れの言葉だったのだ。言外に60年間の交流の思いを伝えてきたのだろう。

私は、富山県高岡市にある南星中学校で学んだ。家は貧乏だったので、本や学用品は、満足に買えなかった。服は、母が丁寧に破れを継ぎはぎしてくれた。当時は同じような同級生が多かった。

そんな時に出会ったのが、20歳代の若い水上先生だった。理科を担当し、野球部の監督も務めていた。ただ本人は、「野球は本格的にやったことはないが、やる先生がいなかったから」と謙遜していた。後日の酒の席ではなかなかの野球の理論家だった。栄養不足のため貧弱な体格で運動神経がまったくダメな私は、もちろん野球部とは無縁だった。

私がとくに面倒を見ていただいたのは、理科の関係である。私は、1年生の夏休みの宿題として「虹を作る器械」を提出した。深く考えたわけではないが、空に浮かぶ虹を見ていて自分で作れないかと考えただけだ。

七夕で使用した竹を角度60度で切り、割れたプラスチックの下敷きを切ってふたをして水を封入しただけである。これでプリズムと同じ状態になる。竹筒に太陽光を当てると、壁に虹の7色がきれいに映し出された。これを夏休みの宿題として提出した。材料費は、ゼロである。

なんということのない1年生の作品に注目してくれたのが水上先生だった。「これは面白い。ぜひ県の科学作品コンクールに出そう」と勧めてくれた。私にとっては、予想外の展開になったが、入賞した。副賞として立派な本箱をいただいた。並べる本は少なかったが、本当にうれしかったし、自信になった。貧乏でもやれるんだと。

その後も先生との交流は、継続した。とくに先生は、40歳代ころからだろうか、蛍の保護に熱心に取り組まれるようになった。

富山県も昭和30年代に新産業都市に指定され、産業開発が急ピッチで進んだ。田畑では、大量の農薬が散布されるようになった。富山県には宮本輝の小説「蛍川」の舞台になった川が流れるが、故郷の河川から蛍の姿が、消えるのは早かった。

小学生の頃は、必ず近所に流れる千保川に蛍を採取に行った。虫かごに入れ、ひとりで押し入れで輝く光を眺めていた。

先生は地道に研究を重ね、県内各地で蛍の復活に成功された。学校にビオトープを作り、生徒の指導にも力を入れた。また、県内の蛍の愛好家と蛍の研究会を結成された。先生が中心になって高岡市で蛍研究の全国大会を開催された。先生の依頼で研究会の顧問になった私は、記念講演を引き受けた。

このような功績が認められ、環境大臣賞、文部大臣賞など数多くの賞を受けられた。

私が環境事務次官に就任した時、地元の北日本新聞に師弟間の手紙の交換という形式で10回連載されたのは、楽しい思い出だ。

語れば尽きないが、生涯を通じて受けた先生の教えは、私の心に永遠に生き続ける。

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