拡大鏡~「持続可能」を求めて第13回 地球が丸ごとビオトープになる日~いきものの生息空間はよみがえるか

2020年10月15日グローバルネット2020年10月号

ジャーナリスト
河野 博子(こうの ひろこ)

小、中学校など教育現場の片隅にあるものと思っていた。ここ10年ほどは、それが河川敷の公園、田んぼ、個人の庭などでチョコチョコ見られるようになった。妙な存在感を放つ「ビオトープ」。背景には、研究者、自治体職員、土木技術者、農家などさまざまな人びとの長年の思いがある。

いきものが生息する自然空間

ビオトープとは何だろう。NPO法人・日本ビオトープ協会発行の冊子『ビオトープってなぁに?』には、「ひと言でいうと、生物生息空間…野生の生き物たちが生きていくために必要な自然空間」とある。

そうすると、「地球そのものがビオトープである」と言いたいところだが、地球上では自然環境の劣化が続き、生き物が生きていけなくなった場所もある。

静岡市の吉川宏一・吉川エンジニアリング社長(79歳)は、20年前に市内に土地を求め、自分でビオトープを作った。ゲンジボタル、ヘイケボタル、静岡メダカがいる。近くの安倍川の支流、油山川には、県に頼み、魚が潜り込める「フトンかご」を沈めて川の生き物が住める「ワンド(湾処)」を造成中だ。

日本ビオトープ協会は静岡大学名誉教授の杉山恵一先生(故人)が創設した。吉川さんは杉山先生から「自然を復元する実行部隊を」と頼まれて尽力してきた。4年前まで協会顧問を務めた。

吉川さんは今でも、杉山先生との出会いを鮮烈に覚えている。

1985年ころのこと。当時、吉川さんが役員を務める建設会社が県立静岡南高校新設工事を請け負った。すると静岡大学教授だった杉山先生が乗り込んできて、大反対を唱えた。山林を伐採し、造成工事をすると生態系が壊れると言う。「そうですか」と言うわけにはいかない。大げんかは三日三晩続いた。

「君は今朝、何を食べてきたのか」

「アジの開きとみそ汁、ごはん、漬物を食べてきました」

「それはみんな生き物だろう!」

最後の晩のやり取りで、吉川さんは「あっ」と思った。以来、「杉山先生の軍門に下った」という。

杉山先生はなぜ、「日本ビオトープ協会」を作ったのだろうか。

協会は2003年にNPO法人化しているが、前身の日本ビオトープ協会は1992年12月の発起人会・設立準備会を経て1993年4月に発足した。発足当初から関わり、現在協会の代表顧問を務める鈴木邦雄・横浜国立大学前学長(73歳)は、こう証言する。

「杉山先生は、研究者などで作る自然環境復元研究会の中心メンバーで、自然保護のリーダー格でした。自然や湿原がつぶされていくことに反対し、運動をしていましたが、時代が時代で開発が優先されてしまった。それで、ご自身のむなしさもあって、積極的に開発段階から参加して自然を残すようにした方がいいのではないか、と考えた。ドイツが発祥の地であるビオトープに着目し、普及に努められたのです」

農薬・化学肥料ゼロを目指す田んぼで力を発揮

私は、環境省のレッドリストに載る絶滅危惧種で、水生昆虫の王者と呼ばれるタガメが復活した、と話題になっていた栃木県塩谷町の田んぼを訪ねたことがある。2010年の春だった。

田んぼの主、杉山修一さんは妻と息子とともに、計43?haもの田畑を耕作していた。農薬・化学肥料ゼロ、減農薬、それに慣行農業(通常の農業)と同時にさまざまな取り組みを行っていたが、計11ヵ所、田畑の隅に短冊形のビオトープを設けていた。

杉山さんによると、ビオトープは「生き物の避難場所」。カエルの卵を見つければすくって連れて行ったし、耕作機がうなる田んぼから逃れたドジョウもいた。

私が驚いたのは、杉山さんの「ビオトープ=満員電車説」だった。ビオトープがあると、田畑に害虫が来なくなる。なぜなら、ビオトープは虫や生き物でひしめきあう満員電車状態なので、害虫もあえてそんなエリアに飛び込もうとはしない、というのだ。その後、生態学者などの専門家に確かめてはいないので、真偽のほどはわからない。

2011年に世界農業遺産として認定された佐渡島の認定米作りでも、鍵はビオトープにあった。佐渡島の農家はJAとともに、「3割減農薬減化学肥料栽培」を推進し、その後これを「5割」にし、2008年には佐渡市認証米「朱鷺と暮らす郷」に取り組み始めた。認証米を作りたい農家は、五つの条件のどれかをクリアしなければならない。条件の一つが田んぼの一角に水がたまる「江」の整備だ。「江」というのは、すなわちビオトープ。2017年秋、私が佐渡島を訪れた時には、「佐渡トキの田んぼを守る会」の農家の田んぼに近所の子供たちが集まり、歓声を上げつつ、「江」の生き物調査に熱中していた。

東京・荒川河川敷のポケットエコスペース

9月20日、東京都江東区東砂の荒川河川敷にあるビオトープに足を運ぶと、近所の親子連れでにぎわっていた。

このビオトープ、正式名称は荒川・砂町水辺公園砂村ポケットエコスペースという。江東区は公園や学校の一角に湿地や草地から成るビオトープを整備、ポケットエコスペースと呼んでいる。

現在、計12の公園にできており、その歴史は古い。江東区土木部で公園づくりを担当した元職員、清田秀雄さん(62歳)によると、1986年、横十間川親水公園の工事中に、移植する植物を一時キープする場所ができたので、埋め立て地に残っていた海浜湿地の植物を持って来たのが始まり。1988年には、その場所に小さな池や草地を作って地元にある植物を植えて「復元実験区」と呼んだ。

清田さんも、静岡大学の杉山教授(故人)らが活動した「自然復元研究会」のメンバーだった。「もともとその土地にあった自然を取り戻しながら、農薬散布量を減らし、生物多様性を増やせば、公園の管理費用も減る、という考え」が、公園づくりに関わる担当者や研究者の間でトレンドになっていた。「復元実験区では、トンボやチョウの数が増え、周りにはない植物も見られた」という。

遠くにマンション群が見える荒川河川敷の砂村ポケットエコスペースには、曇り空にもかかわらず、親子連れが集まり、熱心に池の中をのぞき込んでいた。アメリカザリガニを捕まえては、持参したバケツの中へ入れていく。

ここの管理を請け負っているNPO法人・ネイチャーリーダー江東の李剛会長ら8人も、この日朝から出動。外来生物であるアメリカザリガニが増えすぎないよう、駆除する作業や池の周りの道を覆う草刈りを行った。メンバーの野村由紀子さんは「以前は外から人が来て捨てるのか、ごみがたくさんあったけど、人が来るようになると、あまり見なくなった」という。

小さな自然地は、人の手が入って初めて、人が親しめる場所になる。

小学6年と1年の子供たちと一緒にザリガニを捕っていた会社員の奥村智文さん(39歳)は、「初めて来ました。子供と一緒に楽しめました。しかもタダで」と笑った。池の上をシオカラトンボが滑っていく。

日本のビオトープづくりの祖、杉山先生や江東区の元職員、清田さんら「志」を同じくする人たちの思いは少しずつ、実っている。地球を丸ごとビオトープに戻す「志」を捨ててはいけない。

荒川河川敷の砂町水辺公園・砂村ポケットエコスペースには、親子連れの姿もあった。管理を請け負っている環境団体メンバーはこの日、外来生物の駆除などの作業を行った。(9 月20 日、筆者撮影)

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