日本の沿岸を歩く―海幸と人と環境と第59回 開拓で変貌した流域と自然の恵みー北海道・石狩

2022年02月15日グローバルネット2022年2月号

ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)

宗谷岬から日本海沿いにオロロンラインを南下すると石狩湾に近づいた。サケ(シロザケ)の定置網漁やニシン漁などが営まれる。そこに注ぐ石狩川、さらに石狩平野へと広がる流域は、北海道が蝦夷えぞと呼ばれた時代から厳しい自然と人びととの壮絶な闘いが繰り広げられた。そして現在、札幌のような大都市が繁栄し、泥炭地は広大な農地に変貌した。「石狩」が北海道の開拓史を象徴する言葉であることを確かめよう。

●ニシンの資源管理に力

朝市で買ったシャコ

石狩湾漁業協同組合厚田あつた支所の漁港朝市は石狩川河口まで15kmほどのところにある。到着したのは、昨年6月中旬の午前7時過ぎ。コの形に数店が並んでいた。4月上旬から10月中旬まで毎日開催されている。

店の女性から「今朝捕ってゆでたシャコがすぐ届くから」と声をかけられた。しばらく待ってシャコ10匹を買うと、うれしい2匹のおまけ。どれも石狩湾産の特大サイズだ。

サケと野菜、ご飯を一緒に漬け込んで乳酸発酵させた飯寿司いずしやコンブなどもお得価格で買うことができた。

厚田の次はさらに南にある同漁協石狩本所の朝市。石狩湾新港東ふ頭の道路沿いに数店が並ぶ。

店にはサケやシャコのほか、ニシンやカレイの干物など加工品も多くあった。スナガレイの干物はエンガワを試食でき「よくもんでマヨネーズを付けると日本酒に合うよ」と教えてもらった。

どちらの朝市も規模は大きくないが、新鮮な魚介類を浜値に近い値段で得ることができ、札幌から近いことから住民や観光客が多く訪れる。地元の魚介類を食べてもらう「魚食普及」の目的もあるという。

石狩湾新港での朝市

本所の朝市では秋サケのシーズンに「サケ直売所」も設置される。コロナ禍で水産物の需要が落ち込んだが、朝市の収入が漁業者の助けになっているという。

石狩湾の漁業の指標となるサケの漁獲を調べてみると、近年減少していた秋サケが2020、21年と前年比で微増に転じた。道庁ホームページを見ると、石狩湾(日本海中部)は125万6,958尾(前年比9.9%増)。だが、道内には減少地域もあり、不安定な状況が続く。

今年1月に電話で石狩湾漁協参事の新明正英さんに問い合わせると、漁獲変動は海水温の上昇などさまざま原因があるだろう、と前置きし、「遠浅の石狩湾の海岸や海底もそうですが、海の自然は常に変化し、まるで宇宙のように解明されてないことばかり」と話す。

それだけに「自然の恵みである資源を大切にしたい」と資源管理に努力していることを強調した。近年漁獲が増えてきたニシン漁では、漁期や網目などについて厳しい規制を守っている。1996年に北海道主導で始まった「日本海ニシン資源増大プロジェクト」によりニシンの稚魚16万尾を石狩湾に放流して以後、道内各地で稚魚放流が続いている。さらに成熟前のニシンを捕らないなどの対策が奏功し、産卵行動時に雄の精子で海が白くなる群来くきがあちこちで見られるようになった。

沿岸漁業は流入河川の汚濁、ダム建設や改修工事などの影響をもろに受ける。石狩湾では過去に石狩湾新港造成、計画中のものでは洋上風力発電施設の建設計画などがあり、開発と向き合わざるを得ない。新明さんは「地域を元気にする持続可能な漁業のためには、海が健康でなければならないことを多くの人に知ってもらいたい」と沿岸漁業への理解を求める。

●サケの遡上復活目指す

石狩湾漁協のサケ定置網漁に恩恵をもたらしているのは、生まれた川に戻ってきたサケを捕獲して採卵、人工的に育てた稚魚を放流する「ふ化放流事業」だ。

1877(明治10)年に札幌の偕楽園かいらくえんに北海道初の人工ふ化場が造られ、88年(同21)年に石狩川支流の千歳川に官営の千歳中央ふ化場(現在のさけますセンター千歳事業所)が建設され、官民一体のふ化放流事業が始まった。時は流れ、今は千歳川の捕魚車(インディアン水車)などでサケの捕獲の様子が見られる。

これまでの取材で忠類川(標津町)など道内の川で遡上を見てきた。産卵を終えてぼろぼろの「ほっちゃれ」になって命を終える姿に感銘を覚える。

途絶えていたサケの自然遡上を復活させるため、堰などの工作物に魚道を付けたり、稚魚を放流したりする取り組みも続いている。一度変更した自然をどのような状態に、また、どういう方法で元に戻すのか、今後も論議は続くだろう。

明治時代以降、石狩川では水力発電、かんがい、治水の目的で河川改修が続けられてきた。長さ268km(全国第3位)の流域(1万4,330km2)には札幌市や旭川市をはじめ46市町村がある。上川盆地から多くの支川を合わせて大河となり、最後に千歳川や札幌市中心部を流れる豊平川を合わせ、石狩湾に注ぐ。

中下流部に広がる泥炭の低湿地の平野は高低差が少ないため、縦横に川が蛇行して慢性的に氾濫を繰り返し、移住者たちを苦しめる「暴れ川」でもあった。

大規模な治水工事として知られるのは、石狩川河口から約9㎞上流にある生振捷水路おやふるしょうすいろ(幅約870m、長さ3,655m)だ。捷水路とは川をショートカットする直線の水路。1909(明治42)年に石狩川治水事務所長に就任した岡﨑文吉が着手した工事は、1931(昭和6)年に完成した。この捷水路は石狩川で最初かつ最大の捷水路だ。これまで石狩川には29ヵ所の捷水路が造られ石狩川の長さは約60kmも短くなった。こうした整備によって氾濫も次第に少なくなってきた。

岡﨑は当初、護岸の補強や放水路によって洪水を防ぐアメリカ式の治水方法を提唱していた。それを捷水路に変更した詳細ははっきりしないが、その「自然主義」に基づく治水方式は再評価され、2005(平成17)年の千歳川河川整備計画に盛り込まれている。

大地を開拓した先人たちの苦労を北島三郎が『石狩川よ』(作詞:星野哲郎、作曲:船村徹)で歌っている。「男を支えて 女が燃えた」などの歌詞にある不屈の精神は北海道民の誇りに違いない。

●泥炭地から緑の大地に

農地開発では篠津しのつ運河(23.1kmの用排水路)の存在が大きい。15年の歳月をかけて1971(昭和46)年に完成した。そこに水を引くために石狩川河口から約55km地点に建設された石狩川頭首工(1963年完成)がある。この「篠津地域泥炭地開発事業」は泥炭地を1万1,000haの水田に転換し、北海道屈指の穀倉地帯に変貌させた。「ななつぼし」などのおいしい北海道産のコメが人気を集めていることを先人たちは想像できなかったろう。

石狩湾漁協本所での取材を済ませ、近くにある佐藤水産(株) サーモンファクトリーに立ち寄った。建物近くの川辺に設置してあった説明板には、雪解け水や豪雨による洪水に苦しめられていたことが書かれていた。「旧石狩川」と表示されているのは茨戸ばらと川で、先述の生振捷水路完成によって取り残された川だ。

車で札幌大橋を渡ると生振捷水路が見えた。滔々と流れる川は深い青色。さらに石狩湾につながる河口まで足を伸ばした。紅白の灯台がたたずみハマナスの甘美な香りが鼻をくすぐる。氾濫を想像するのが難しい穏やかな自然の表情。ふと淑女のそれに似ていると思った。

かつて石狩川の本流だった茨戸川

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