フォーラム随想川棚再訪

2022年03月15日グローバルネット2022年3月号

日本エッセイスト・クラブ理事
森脇 逸男 (もりわき いつお)

 この正月、思い立って山口県の川棚に行ってきた。川棚、昔は村だったが、今は下関市に属する温泉地だ。音楽関係の方には、20世紀の世界的ピアニスト、アルフレッド・コルトー(1877~1962)の逸話で有名だろう。
 彼が昭和27(1952)年に来日公演し、下関を訪れ、川棚温泉に宿泊した際、沖合に浮かぶ厚島の美しい風景に魅せられ「天国のようなあの島で死にたい」と漏らし、当時の川棚村長から、「お住みになるなら、『孤留島(コルトー)』と名付け、無償で差し上げましょう」と言われて感動、フランスに帰国後「私の名前の島が日本にある。もう一度行きたい」と話していたとのことだ。

 

 その川棚、私は77年前に行っていた。1945年6月、私は山口市に住み、県立山口中学の2年生だった。当時は太平洋戦争の末期で、米軍はすでに沖縄に進攻しており、本土のどこに上陸作戦を展開されても不思議ではない情勢だった。そこでわが陸軍は、敵が攻めて来そうな海岸地帯に、迎撃態勢作りを急いだ。川棚の海岸には、小高い山が連なる。もはや最前線に配置するのは無理な予備役の兵隊を召集して海に面した山の中腹に横穴を掘らせ、「本土要塞」として砲兵を配置、敵軍の上陸を迎撃、阻止するという作戦だ。
 ここ川棚では、大分県からの中年兵が、その横穴掘りに当たっていた。ダイナマイトを仕掛けて掘り出した土を、穴の外に運び出すのも人手を要する。その土運びで目を付けられたのが中学生だった。
 当時すでに中学3年生以上は軍需工場に動員されて、穴掘りは不可能。ということで、学校に残って防空壕造りや農作業などに当たっていた2年生が「学徒動員」され、われわれは、山口市から川棚に向かうことになった。

 

 もちろん、動員学徒のための宿舎などは無く、落ち着いたのは川棚国民学校の講堂で、それぞれ自宅から背負ってきた自分用の敷布団と掛布団を並べて寝泊まりし、朝が来れば、列を作り、軍歌を歌って現場の山に向かう。
 仕事はモッコに入れた土を穴の外に運び出し、捨てるというだけなので、別に重労働ではなく、その上うれしかったのは、現場近くの山にはヤマモモの木が多数自生していて、ちょうど熟れた実が鈴なりになっていて、仕事の合間にいくらでも食べられたことだ。穴掘りの兵隊たちと演芸会を催したこともあった。小柄でいつもおとなしいA君が『のんきな父さん』を歌って拍手を浴びたことを覚えている。
 当然、楽しいことばかりではなく、毎日入れる温泉では、てきめんシラミに取り付かれた。6月のある夜、今から寝ようという時に非常呼集が掛かり、穴掘り兵を統率する将校が「本日、沖縄は米軍に占領された」と沈痛な面持ちで発言したことも記憶にある。
 結局小生は、山口中学校から「陸軍幼年学校の受験準備のため学校に戻って来い」という連絡を受け、1月余りで動員暮しは終わった。動員の報酬として戦後、確か20円余を通帳に振り込まれたことも記憶にある。懐かしくもあり、思い出したくない気持ちもあり、以来77年間、川棚とは無縁で来たが、でも一度は再訪したいという気持ちも根強く、年齢的にも今年あたりが最後のチャンスだと再訪してみることにしたものだ。

 

 戦争を知らない世代の人たちに、13歳の中学2年生が動員された時代もあった、もうそんなことは二度とあってはならないと、知ってもらいたいとも思う。
 ただ、本土要塞造りが未完のまま戦争が終わったためだろう。旅行前、一応市役所に問い合わせをしたが、戦時中の伝承は無く、実際に川棚を訪れても、現地がどこだったか、まったくわからないままだった。せいぜい海岸に出て、右手の海、左手の連山を眺めて、往時をしのぶしかなかったのは、いささか残念ではあった。

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