日本の沿岸を歩く~海幸と人と環境と第60回 ニシン漁から始まった商港都市の発展―北海道・小樽

2022年03月15日グローバルネット2022年3月号

ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)

幼い頃に浜でニシン漁を見た作詞家なかにし礼(1938?2020)が作った『石狩挽歌』(歌:北原ミレイ)は、明治から昭和初期にかけて北海道で全盛を極めたニシン漁を懐かしむ。舞台は小樽市。日本海側には100人以上の若い衆などと呼ばれた労働者が寝泊まりした番屋がいくつも残っている。贅を尽くした建物は「にしん御殿」として繁栄の残影を現代に伝えている。

●北前船でニシン粕移出

小樽市街地から海沿いに西に車で20分ほどの高島岬のある祝津しゅくつ地区に到着した。日和山ひよりやま灯台の近くにある小樽市鰊御殿は西へ40kmほどの泊村から戦後に移築、復元された。木造の大きな建物は訪問時、あいにくコロナ禍で閉館中だったが、ニシン漁の資料などが展示してある。西の余市町側へ少し離れた場所に『石狩挽歌』に出てくる「オタモイ」の地名がある。ニシン漁をした「ニシン場」である祝津には三大親方(網元)の白鳥家の番屋や「にしん御殿小樽貴賓館」(旧青山別邸)などが残る。他にも市内には高級旅館の銀鱗荘(1939年に小樽市の西隣の余市町から移築)もある。天狗山(標高532m)展望台に上り、ニシン漁でにぎわった海を眺めることができた。

岬にある小樽市鰊御殿

「(網を)一起こし千両万両」といわれるほどもうかったニシン漁の記録を調べると、小樽を含む後志しりべし(小樽から西へ積丹しゃこたん半島を経て島牧村までの区域)地区が特に漁獲が多く、1920(大正9)年に39万1,500tで北海道全体の73万tの半分以上を占めていた(『ニシン文化史』今田光夫著)。

小樽市総合博物館の学芸員(歴史担当)、工藤正智さんを訪ねてニシン漁と小樽の関係を問うた。工藤さんは「江戸時代末期に松前藩が後志までニシン漁を許可してから人びとが移入してきました。これが小樽がにぎわいを増すきっかけになりました」と説明した。

全盛期のニシン漁は3~5月が漁期で、東北などから多くの労働者が集まった。

定置網の一種である角網かくあみを設置し、浜に押し寄せるニシンを待った。大人数が船こぎ、網起こし、運搬、加工などを分担し、大量のニシンを昼夜分かたず処理した。人手が足りない時は女性や子どもも手伝った。ニシン漁に沸く現場の活気から生まれたのが民謡『ソーラン節』(沖揚げ音頭)だ。

浜に揚がったニシンは、大きな釜でゆでて魚油を搾り、残った部分を乾燥させてニシン粕に加工した。カズノコ、身欠きニシンなどの食用よりもニシン粕の方が格段に量が多かった。

ニシン粕は北前船などで北陸や関西方面に運ばれ、藍、木綿など農産物の肥料として使われた。明治以降の繊維産業などの殖産興業を支える重要な役割を果たしたのだ。工藤さんにもらった11(明治44)年の陸海運統計『小樽区史』を見ると小樽港の積み出し貨物の金額で一番多かったのはニシン粕(身欠きニシンの不要部分である胴鰊を含む)で18%だった。

●「北のウォール街」出現

小樽はニシン漁を足掛かりに港湾都市として繁栄していく。大正期までは札幌より大きく「北海道の心臓」と評された。金融機関が集まり、日本銀行旧小樽支店、旧三菱銀行小樽支店、旧北海道銀行本店、渋沢栄一が創設した旧第一銀行の小樽支店など20行ほどもあったという。現在も残る建物群は米国ニューヨークの金融街をなぞり「北のウォール街」と呼ばれる。

北のウォール街

以前の取材でニシンがオランダの発展をもたらしたと書いたことがあるので、小樽にも同じような関係があるのでは、と期待した。北海に接しているオランダのニシン漁は近世に莫大な利益を上げ、航海術や造船技術の発展とともにオランダを欧州の一大強国にした。『ニシンが築いたオランダ-海の技術史を読む』(田口一夫著)には、「アムステルダムの町はニシンの骨の上に建っている」の表現も出てくる。

港町ハーグのレストランで、ハイネケンビールと一緒に味わった生ニシン(酢漬け)のおいしかったこと。先月号の石狩湾漁協でこの話を持ち出すと、オランダのニシン事情はご存知で「日本人の口に合う」と意見が一致した。ニシンの種類が違うが、機会があればオランダ産と北海道産ニシンの食べ比べをしてみたい。

小樽でのニシンの漁獲は昭和期に入ると減り始め、54(昭和29)年を境に捕れなくなった。原因は水温上昇や森林伐採など環境の変化、乱獲などがあるとみられている。現在、北海道沿岸で復活の兆しを見せているニシンは以前の「北海道・サハリン系群」ではなく、「石狩湾系群」と呼ばれる地域性ニシンだという。

●運河埋め立て計画浮上

北海道開拓の玄関口だった小樽港は、当初沖に泊めた大型船から中継船であるはしけで荷を運び荷揚げをしていた。扱い量が多くなると、海岸の埋め立て地に倉庫を建て、艀を接岸させる運河を造った。23(大正12)年に完成した運河は全長1,140m、幅40m。その後、港に直接荷揚げできる埠頭岸壁が整備されると、艀は不用となり運河は役目を終えた。歳月は流れ、66(昭和41)年に運河の埋め立てと倉庫群の解体が伴う道路整備計画が浮上した。

工藤さんは、この計画によって結果的に小樽運河の一部が保存された、と説明する。「開発計画が市民の運河へのノスタルジーをかき立てたのです。保護運動は地元だけでなく全国の注目を集め、一気に知名度を高めました」。十数年に及ぶ議論、紆余曲折があったが、まさに「雨降って地固まる」。今では小樽の顔として多くの観光客を呼び寄せている。

運河は86年に現在の姿になり、ガス灯設置のほか、石造りやレンガの倉庫群のライトアップでレトロな雰囲気を醸し出す。運河は半分の幅になったが、北浜橋から西側の「北運河」は元の40mのまま。北運河沿いにある北海製罐小樽工場第三倉庫は老朽化で解体の危機があったが、昨年末に北海製罐が土地と一緒に小樽市に無償譲渡(保全費1,000万円も寄付)することが発表された。

運河沿いの石畳の散策路を歩くと、側壁の『小樽のひとよ』『おれの小樽』の歌詞プレートに2年ぶりに再会した。石原裕次郎が歌う『おれの小樽』(作詞:杉紀彦、作曲:弦哲也)には、小樽で幼少期を過ごした裕次郎が兄慎太郎氏(今年2月1日死去)と家路を急いだ思い出、坂の町の風情がある。市内にあった「石原裕次郎記念館」は2017年に閉館したが、オンライン記念館で裕次郎と小樽とのつながりを知ることができる。

小樽取材で小樽の歴史がニシン漁から始まったこと、市民の歴史への愛着とプライドを感じられたのは大きな収穫だった。ただ、時間がなく、ニシン料理を出す店だけでなく、有名な三角市場や鱗友朝市にも行けなかった。古い倉庫や建物をリノベーションした店やレストラン、小樽市総合博物館の展示も次の機会にするしかなかった。心残りを紛らわせるためにスーパーで買った塩辛風の麹漬け「ニシン切り込み」を肴に宿で寝酒。翌日、北海道取材を終えて「生干しニシン」を広島の自宅に持ち帰った。これを肴に「わしの小樽」の気分に浸ることができた。

観光名所の小樽運河

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