フォーラム随想「環境と接する」とはどういうことか

2023年08月15日グローバルネット2023年8月号

長崎大学大学院プラネタリーヘルス学環長
熱帯医学・グローバルヘルス研究科教授
渡辺 知保(わたなべ ちほ)

 私たちが「環境と接する」という時、それは結構複雑なプロセスを含んでいる。以前にも書いたように、生命医学領域の教科書では環境は「周りを取り巻くもの」として定義されている。従って、私たちは全ての瞬間において環境に接していることになる。そうやって接している環境には、他人がいたり、都会の街並み、大自然の景観、職場のコンピューターや機器などさまざまなものが含まれている。私たちは、瞬間瞬間で何かに注意を集中したり、あるいはもう少し漠然とその環境を「感じ」たりしているので、後から「接した」として思い出せるのは、その瞬間に注意を向けていた対象であって、物理的に周囲にあった環境とはしばしばズレている(だから、歩きスマホは危ないですよ、ということになるし、飛行機での移動でも、窓の外の絶景ではなく、読んでいた本の印象だけが残ったりする)。
 一方で、スマホや本にいくら集中していても、誰かに名前を呼ばれれば一瞬で振り向き、蚊に刺されれば痒いところを確認し(運が良ければまだ血を吸っている蚊をやっつけるだろう)、好きな音楽が聞こえてくれば、思わず音の出どころを探すだろう。こうした環境からの突然の刺激でなくても、自分が本を読んでいる(あるいは友人と会話をしていたり、一杯やっている)場所が、心地よい風に吹かれる広場だったり、にぎやかな駅前だったり、照り返しの強い広場に向いたカフェだったり、といういわば背景としての「環境」は、本や会話の内容や、食事や酒のおいしさに影響するだろう。
 一日の体験をどこかにダウンロードできるとすれば、こうしたさまざまな情報がまぜこぜの時系列ができ、これがある一日において「接した環境」です、ということになる。

 

 このようなダウンロードが可能な仕掛けは、今のところ存在しない。私たちが記録できるのは視覚と聴覚の情報くらいで、これらは容量さえ許せば一日あるいはそれ以上の期間にわたって「接した」環境を記録できる。ただし、その場合でも、ある個人が「接した」(注意を向けていた)環境を再現できるわけではない。
 さらに嗅覚や触覚、あるいは体性感覚(一言で言えば、体の傾きとか安定とか)を記録して、後から追体験したり、他人が体験したりできるような仕掛けは、(特殊な実験的装置で、これらのごく一部を再現するものを除けば)存在しない。これ自体は別に困ったことではないのだが、困るのは自分の記憶の中でも、おそらくは視覚や聴覚で得た情報が〝えこひいき〟されて残っており、その他の感覚は比較的早く消え去ってしまうことだ。中には強烈な(嫌な、あるいは素晴らしい)匂い、ビーチの微風などの記憶もあるかもしれないが、大部分は視覚的・聴覚的な記憶だろう。

 

 他人と共有できるのは、これら、コトバで伝えたり、現代的な「ガジェット」で伝えることができるような記憶であって、コトバや記憶装置による再現手段がない、さまざまな感覚は人間社会の中で比較的「短命」なのかもしれない。
 私たちの社会が過去からの記憶の連鎖で作り上げられていることを考えると、現代社会の姿や仕組みは、ずっと昔から視聴覚で得た情報の蓄積に頼って作り上げられている部分が大きいだろう。つまり、私たちが「環境と接して」そこから学んだものと、記憶し、記録し、伝えてきたものとには大きな隔たりがあるに違いない。バイアスがかかっているからこそうまくやれてきた部分がある一方で、バイアスが原因でうまくいっていない部分も多いはずで、バイアスがなかったら、あるいは別の形でかかっていたら、今の社会の見え方や在り方、環境との付き合い方がどうなっていたかはわからない。
 しかし、今私たちが頼っている知識体系を作り上げるにあたって、どのような部分が脱落し、それによって私たちの環境理解にどんな欠落が生ずるのか、考えてみなければいけない気がする。

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