フォーラム随想暗黙の契約
2025年08月13日グローバルネット2025年8月号
長崎大学大学院プラネタリーヘルス学環、熱帯医学・グローバルヘルス研究科教授
渡辺 知保(わたなべ ちほ)
友人たちとの雑談の中でスポーツの中継が話題になった。誰のホームランの軌跡が驚異的だったとか、誰それの投げる球は打者の手前でホップするとか、バスケでノールック・パスの出し方が尋常ではない選手がいるとか。こういうのはラジオの中継では伝わらないだろうね?という私の疑問に、いやカーステ(これもほぼ死語かもしれませんが)で聴いてると、やはり実況アナウンサーの技量がすごくて、結構光景が浮かんでくるよ、との答え。結局、アナウンサーも聴き手のわれわれも野球のルールや野球場のレイアウトを知っていて、あらかじめそれらの枠組みを頭に浮かべながら聴くからこそ光景が伝わるのだという、考えてみれば当たり前の話になった。
つまりはスポーツ中継をラジオで聴くというのは、アナウンサーと聞き手とが暗黙の契約を交わしているようなもので、「通常の」野球のルールや球場のレイアウトを共通の前提とするという架空の書面に両者がサインして成立していることになる。だから、バッターが2人同時に立ったり、フィールドに数十人の野手が守っているようなことになれば、スポーツ中継は意味を成さない。最近は聴いていないが、相撲のラジオ中継だと、大抵数秒で決着が着くので、行司が「待ったなし!」と叫んだ後は、「立った!」、わーという大歓声と「のこった、のこった」という行司の掛け声(以外、ほぼ聞こえない)、「勝った!」くらいしかわからないにもかかわらず、取り組みの光景が(正しいかどうかは別として)伝わってきた。
スポーツ中継に限らず、人間同士の情報のやりとりは、ほとんどの場合、受け手と送り手で共通の前提がある上で成立している。例えば映画も、これは現実ではない、という前提が共有されて初めて成立する。昔、日の出から日没までずっと小さいブユのような虫に悩まされる熱帯のフィールドで調査をやっていた時、一日の調査が終わり、映りの悪いテレビで近所の人たちと 『ターザン』の映画を観たことがある。言語もほぼわからない吹き替えだったので、画像ばかり注目することになったが、同じく日本から来た調査仲間が、「ここ(ターザンのいるジャングル)は虫いないんですかねぇ」とボソッと言ったので笑ってしまった。確かに映画のジャングルには、虫が飛んだり這ったりしている様子はなく、ターザンもそれに悩まされているようではなかったが、映画は現実ではない、という共通の前提があるからこそ、リアルな話として受け入れられることになる。ここでも作り手と観客とは、作品は現実ではない、という暗黙の契約に署名している。ゴジラに至ってはなおさらのことで、これはうそです、造り物ですという大前提は受け入れつつ、観客はいちいち怪獣の出現にドキドキできる。
観客が求めているのは決して現実そのものではなく、虚構であることは理解した上での「現実」だ。
私たちが他の生物を含む自然を観察したり、自然に働きかけたりする(保全でも破壊でも)ときは、自分自身の経験と過去の人間から蓄積されてきた知識という枠組みに頼っていることがほとんどだ。つまり、この情報のやりとりの前提を共有しているのは、本来の暗黙の契約相手である“自然”ではなく、過去に生きた人を含め、広く人間一般であって、そもそも前提の存在を意識することもあまりない。この情報交換を通じて、私たちは自然を“理解”し、その振る舞いを予測したり、時には制御することも可能にして、極めて多くの恩恵を受けてきた。一方では、私たちは人間同士で共有された前提を外して、“無垢(むく)な目”で自然と向き合う能力を失いつつあるのかもしれない。“自然”と暗黙の契約を取り交わすことは容易ではなく、不可能かもしれないが、無垢な目の喪失がいつ頃始まり、何をもたらし、どうすればそれを再度獲得できるのかを問うことが、Triple Planetary Crisis*に取り組む上で重要だと思う。
(*気候変動、生物多様性の損失、汚染という3 つの地球規模の危機)