日本の沿岸を歩く―海幸と人と環境と第101回 蒲生干潟に津波と防潮堤の試練ー宮城県・仙台市

2025年08月13日グローバルネット2025年8月号

ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)

東日本大震災(2011年3月)で甚大な被害が出た東北地方。巨大津波が破壊した自然や町並みの復興が続く太平洋沿岸のうち、岩手・青森県(2022年取材)に次いで宮城県を訪ねた(3回連載)。最初の取材地は仙台市東部の蒲生がもう干潟。高さ10mの津波で砂浜や砂州などは流失し跡形もなく破壊されたが、自然は驚異的な回復力を見せた。ところが、元に戻りつつあった干潟に大規模な防潮堤が建設された。防潮堤は干潟と背後地を分断し、干潟の生物多様性はダメージを受けた。後背地の居住区域も工場などが立ち並ぶ工業地域に変貌した。それでも自然保護団体や住民は蒲生海岸を「自然と生命の宝庫」とアピールを続け、大規模公共工事を経ても再生を続ける干潟を見守っている。

防潮堤(手前)と蒲生干潟

●絶望視された干潟復元

日本一標高の低い日和山

4月上旬の正午近く。JR仙台駅から東へ12km。太平洋沿いの蒲生干潟に着いた。七北田ななきた川の北側の海側に潟湖せきこと干潟が広がっている。震災前は全国有数の渡り鳥の飛来地であり、底生生物や海浜植物が多く見られる干潟に戻りつつある。案内をお願いした「蒲生を守る会」の熊谷佳二さんと合流した。

干潟のひときわ目立つ場所にあったのは日本一低い日和山。山頂(標高3.0m)を示す碑がある。蒲生干潟のシンボル的存在で、ユーモラスな低山は干潟に愛着を持つ人々を元気づけてきた。

上空にはヒバリがにぎやかに舞い、潮風が心地よい。震災後自然に生えた野生種のオオシマザクラが開花を控えていた。宮城県出身者の作詞、作曲による復興支援ソング『花は咲く』が似合いそうな風景だ。

干潟を歩くと底生生物の巣穴の周囲に海岸の砂地に生えるハママツナの小さな芽がいくつもあった。繁茂すると緑のじゅうたんのように干潟を覆うという。

熊谷さんにもらった「海辺マップ」には国の天然記念物のコクガンなどの渡り鳥をはじめ、植物、魚、昆虫、底生動物、両生類、爬虫類などがイラスト入りで紹介してあった。汽水性と淡水性の動植物に出会える場所なのだ。

「蒲生を守る会」が設立されたのは半世紀以上前の1970年。仙台港建設による蒲生干潟の埋め立てへの反対運動を展開し、その半分を埋め立てから救った。干潟と周辺の48haは国指定の鳥獣保護区特別保護地区、宮城県自然環境保全地域に指定された。震災前の2005年には自然再生推進法に基づく再生事業が始まった。

守る会は観察会、生き物調査、シンポジウム開催、会報発行などの積極的な啓発活動を続けてきた。大津波の直後に地元メディアが「復元不能」「回復困難」と報じた蒲生干潟だったが、守る会はすぐに毎月の観察を始めた。そこで熊谷さんたちが目撃したのは、自然の驚異的な回復力だった。1ヵ月もたたないうちにカニの姿が観察され、やがてあちこちに底生生物の穴が確認されるではないか。海岸も砂が運ばれて元の地形に戻り始めた。海の生物の幼生や干潟の底生生物が増えると、それを餌にするシギやチドリなどの水鳥が戻ってきた。12本のクロマツも生き残った。

●復興事業で状況が一変

日々変化する干潟は人々の感動を呼んだ。だが、震災復興事業として実施された巨大堤防建設工事(2016~21年)が新たな人為的かく乱を招いた。高さ7.2m、幅40mの河川堤防と防潮堤(実質は同じ)で干潟の一部を埋め立てる計画は、干潟の生態系保全のための十分な論議や調査がされないまま進行した。

熊谷さんらは、失われた生物多様性を復活させる効果的な生態系保全策を提言。多くの賛同の声を得て、当初の計画より80m陸側に後退させることができた。

自然だけでなく、住民も大きな影響を受けた。干潟の背後地にあった蒲生地区には震災前、約2,000人(1,500世帯)が暮らしていたが、仙台市は震災復興を名目に災害危険区域に指定。さらに土地区画整理事業によってほとんどの被災住民を他地域へ移転させた。現在は仙台港の物流拠点の機能を支える製造業、バイオマス発電所、物流会社などが立ち並ぶ。

震災復興について筆者は、土木・建設業界の「復興バブル」を知っている。地域住民の要望が十分に反映されなかったこと、自然や住民より先に公共事業ありきだったことを残念に思っている。

縦割りで融通の利かない行政に対して熊谷さんたちは、何度も無力感を味わいながらも「干潟の自然や地域の歴史と共存する町の復興」を目指して活動を続けている。他の団体や地域の人たちと思いを共有できていることが強みだ。

蒲生地区の歴史といえば、貞山運河(御舟入堀おふないりぼり)に触れなければならない。残念なことに仙台港の建設によって一部が港湾内に含まれて消失、仙台港から七北田川にかけて蒲生干潟の区間も埋め立てられた。

この運河は、宮城県が誇る日本一の運河群の一部である。旧北上川(石巻市)から福島県に近い阿武隈川まで全長49km(仙台港工事後は44km)あり、北から順に北上運河、東名とうな運河、貞山運河(御舟入堀、新堀、木曳堀こびきぼり)と連なる。舟運を目的に仙台藩主伊達政宗の命により建設が始まり、現在は治水に加えて「土木遺産」として歴史や景観などの意義を持つ。

蒲生地区には御蔵跡や船溜まり跡地などがあり、新たな観光資源としても期待されている。だが、運河は必ずしも周知されているとは言えず、熊谷さんは「御蔵跡の展示施設充実や石積み護岸の復元をすれば、住民の関心は高まるはず」と期待する。

藤塚地区にある貞山運河(新堀、手前)と井土浦

●元住民たちの憩いの場

蒲生干潟の散策を終えると、「舟要しゅうよう観音」のある防潮堤近くの「舟要洞場」で休憩した。2人の息子さんを津波で失った笹谷由夫・美江子さん夫婦が設けたもので、息子さんや住民犠牲者の供養をしている。ここを故郷と思う元住民などが集う場所にもなっている。

蒲生干潟の次は、13 kmほど南に進み、名取川の北側にある藤塚地区の「避難の丘」に上った。貞山運河(新堀)の向こうに潟湖の井土浦いどうらが広がる。名取川の南側対岸の閖上ゆりあげ浜側にも足を運んだ。名取市震災復興伝承館の近くで熊谷さんと海を眺めながら、海岸の自然の不思議さと魅力を描いたレイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』に話題が及んだ。復興事業に携わる役人たちが一読し「ナチュラルリテラシー」を高めることを願いたい。

閖上地区も津波で壊滅的な被害を受けた。かつて仙台藩直轄の港として仙台に魚介類を供給していた港町。復興によって活気が出てきた閖上魚港では日曜、祝祭日に「ゆりあげ港朝市」でにぎわっている。客が番号入りのうちわを挙げる競り市(日曜日限定)が人気を呼んでいる。地元の魚介類が味わえる店や魚や野菜などを売る店が集まった「かわまちてらす閖上」もある。

熊谷さんと別れると、さらに南へ向かい阿武隈川を渡り、鳥の海公園を経て震災遺構の中浜小学校に到着した。公開時間外だったので離れた場所から校舎を眺めた。震災前から津波や高潮への対策が施されていた校舎が児童や教職員、保護者ら90人の命を守ったことを後で知った。

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