日本の沿岸を歩く~海幸と人と環境と(第14回)金子みすゞの記憶が生きる仙崎―山口県・長門

2018年05月15日グローバルネット2018年5月号

ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)

朝焼小焼だ/大漁だ/大羽鰮(おおばいわし)の/大漁だ。

浜は祭りの/ようだけど/海のなかでは/何万の

鰮(いわし)のとむらい/するだろう。

夭逝(ようせい)の詩人、金子みすゞ(1903~1930)はこの「大漁」という詩のように、自然と人間を鋭い感性で見つめていた。その数々の作品は、死後半世紀を経て、人々に広く知られ教科書に載るようになった。女性、環境、共生などといった今の時代が求める価値観に合致しているようだ。彼女が生まれ育った漁業の町、日本海に面する長門市仙崎にやって来た。

●道の駅に地域振興期待

長門市は人口3万4,359人(2月末現在)、2005年に旧長門市、大津郡三隅町・日置町・油谷(ゆや)町の1市3町が合併し、現在の長門市になった。安倍晋三首相の本籍地(油谷町)であり、2016年に市内の湯本温泉で日露首脳会談が開かれたことも記憶に新しい。

仙崎漁港は県内第3位の水揚げ(数量)を誇り、焼き抜き蒲鉾の生産でも知られる。市は基幹産業である農林漁業など一次産業を元気にして所得の向上と雇用創出を図ろうと、2013年「ながと成長戦略行動計画」を策定。その取り組みの一つとして地域に根差した交流拠点施設「センザキッチン」の整備を進めてきた。

センザキッチンは仙崎とキッチンを合成したネーミングで、鍋と波を一緒にしたシンボルマークは、仙崎の豊かな海の幸がおいしく味わえるイメージをうまく表現している。太平洋戦争後の引き揚げ港になった仙崎港の一角に、産直棟、レストラン棟、パン小屋棟などをそろえた平屋の建物(総床面積約1,465m2)が完成し、昨年10月に直売所がオープン。今年4月20日に道の駅としてグランドオープンした。

センザキッチン(左奥)と金子みすゞの肖像を使った看板(右)

長門市商工水産課を訪ねると、課長の寺岡秀勝さんは狙いを次のように語った。

「新鮮でおいしい魚を上手に売れば、地域の漁業者や水産加工業者などの収益が増えます。そのために観光客を呼び込んで地域の魅力ある農林水産物や特産品などをアピールし、販売を増やして地域経済を元気にするのです」。

長門市は古くから漁業の町として栄え、伝統的で多彩な沿岸漁業がある。カニ、エビ、ヒラメなどを捕る小型底引き網、アジ、サバなどの巻き網、イワシを捕る棒受け・すくい網、イカの一本釣りなどなど。イカは高級なケンサキイカで「仙崎イカ」のブランド名がある。ところが、近年漁業の衰退がスピードを速めている。仙崎漁港の水揚げは2006年に45億6,527万円だったものが、10年後の2016年には23億9,636万円と半減した。正・准組合員は2,072人から1,287人と半数近くに。平均年齢68.8歳と高齢化も進む。それだけにセンザキッチンへの地元の期待は大きい。

●みすゞ記念館人気呼ぶ

センザキッチンを訪ねると、入り口に金子みすゞの見慣れたポートレートがあった。訪問したのは道の駅のグランドオープン前で、広い駐車場に車の数は少なく、しゃれたデザインの建物が余計に印象的だった。そこから歩いて10分ほどのみすゞ通りに、金子みすゞ記念館があり、みすゞが子供のころ、実家が営んでいた書店「金子文英堂」も再現されている。

みすゞは、大正期の詩人で、彗星のように現れて詩人西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されたが、26歳で自ら命を絶った。その後、長い時間が経過し、童謡詩人の矢崎節夫氏(現在の館長)が手書き3冊の童謡集を発掘して全集を出版した。館長補佐、河野隆一さんは「彼女の死から半世紀を経て、その作品が脚光を浴びるという奇跡的な展開があったのです。今では小学校の教科書に載り、記念館には昨年6万5,000人もの来館者がありました」と静かなブームを説明する。

冒頭の「大漁」のように、みすゞの作品には仙崎での生活を題材にしたものが幾つもある。漁業に関わるものだけでなく、牛に食べられた草が夜の間に伸びることをうたった「草原の夜」、違いを認めて慈しみ合う「私と小鳥と鈴と」など、自然や生命に対する畏敬の気持ちを込めた詩が多くの人の共感を呼ぶ。

みすゞは「大漁」を通して、漁獲を喜ぶだけで、魚の産卵や稚魚の成長などに思いを遣ることができない人間に警鐘を鳴らしていたのかもしれない。乱獲による水産資源の枯渇も、「みすゞの心」があれば、状況は違っていただろう。

記念館を後にして、みすゞ通りにあるブロンズ像や遍照寺のみすゞの墓などを確かめ、仙崎大橋を渡って青海島(おうみじま)へ。橋を渡ってすぐの小高い王子山は、同じ題名のみすゞの詩がある。山から眺めた仙崎の町は「竜宮みたいに浮かんでる」とし、「わたしは町がすきになる」と書いている。「干鰮(ほしか)のにおいもここへは来ない」は、漁業の町であった証拠だろう。同じ展望台から町を見渡すと、時を超えてみすゞの感性に少し近づいた気分になった。

青海島の王子山から望む仙崎

●伝えられる捕鯨の記憶

西長門国定公園にある青海島は、透明感のある紺ぺきの海上に岩山が浮かぶ「海上アルプス」として観光名所になっている。『青海島』(歌:水森かおり)が似合うような日本海の旅情が漂う。

王子山からさらに9kmほど島の奥に進むと、市内で規模が最大の漁業基地である通(かよい)地区に着く。江戸時代に入ってから本格的に始まった古式捕鯨の歴史があり、クジラの像を屋上に飾った「くじら資料館」と、そのすぐそばに鯨墓がある。1692(元禄5)年に建てられた墓は、クジラとその胎児の菩提を弔うためのものだ。後ろには明治時代までクジラの胎児72頭が埋葬され、位牌、過去帳も近くの向岸寺に安置されている。捕鯨をしなくなった明治の末から100年以上たった現在も毎年法要が営まれている。

資料館の展示を見ると、沿岸近くを回遊するクジラを追い込んで、網やモリを使って仕留める捕鯨の様子がよくわかる。「鯨一頭捕れば七浦にぎわう」といわれた。毎年7月の「くじら祭り」では、クジラに見立てた船を使って古式捕鯨を再現し、海の男たちの勇壮な漁労に思いをはせている。

捕鯨を扱った「鯨捕り」「鯨法会」というみすゞの作品がある。海の幸に感謝しながら、クジラの命を奪う悲哀も忘れることはない。クジラを人間と同じ生き物として捉え、殺生への戒めも感じさせる。こうした歴史や感性は、捕鯨反対運動の盛んな欧米では簡単に理解されないのでは、と勝手に思ってしまうのだが。

通地区の伝統的な捕鯨は、近代捕鯨が登場したため、明治末期には幕を下ろした。近代式捕鯨を日本で初めて手掛けた「日本遠洋漁業㈱」(日本水産の前身)の跡地はみすゞの墓のすぐそばにある。

みすゞ記念館のパンフレットにあった「だれの心のなかにもみすゞさんはいます」という言葉は、仙崎に来て心に強く響いてきた。みすゞの作品は長い時を経て脚光を浴びたが、みすゞが親しんだ長門市の海の幸に注目が集まる日は、もっと早く来てほしいものだ。

通地区にある鯨墓

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