特集/忘れられた地下水問題~持続可能な地下水の保全と利用に向けたガバナンスとは~日本の地下水政策~これまでとこれから

2019年11月15日グローバルネット2019年11月号

阪南大学 経済学部 准教授
千葉 知世(ちば ともよ)さん

 日本には地下水管理のための総合的な国の法律がなく、その保全・管理は地方自治体に任されてきました。地下水が空気と同様に資源として位置付けられていなかったためで、わが国の地下水政策は大変遅れています。
 その現状と課題、そして国内の地下水保全の先進事例を紹介し、持続可能な地下水の保全と利用に向けたガバナンスの構築について考えます。

 

地盤沈下に端を発した地下水問題

日本では江戸時代から地下水の採取技術が急速に進歩し、大正時代の半ばにはすでに地盤沈下現象が確認されていたといわれています。ですが、地下水障害が広く世間に知られるようになったのは戦後です。高度経済成長期の地下水利用の急増による地盤沈下と地下水質の悪化は、各地に被害をもたらしました。現在は大規模な地盤沈下はおおむね沈静化傾向にありますが、新たな諸課題が注目を集めるようになっています。

地方自治体が引っ張ってきた地下水政策

地盤沈下問題への対策として、工業用水法(1956年)や建築物用地下水の採取の規制に関する法律(1962年)が制定され、また、とくに地盤沈下被害の著しい3地域(濃尾平野、筑後・佐賀平野、関東平野北部)については地盤沈下防止等対策要綱が策定され、地下水の採取規制が講じられました。しかしながら、これらの法制度は規制対象が限定的であり、全国に広がる地盤沈下の根本的解決策とはなりませんでした。

そこで、地方自治体が独自に条例を制定し対応するようになりました。これら地下水条例は、国家法に比較して規制対象が広く、規制基準もより厳しく設定されている傾向があります。さらに、一部の地下水条例は、地下水涵養、地下水影響工事規制、災害時利用、景観・生態系の保全、市民参加等、国家法の存在しない領域についてもさまざまな規定を設けています。水質保護については、水質汚濁防止法(水濁法)はじめ国家法が各種存在しているため、地下水条例として特別の定めを持っているものは多くありません。ですが、一部の条例は水濁法よりも規制対象を厳しくする等、上乗せ・横出し条例として機能しています。筆者が調べた限りでは、とりわけ神奈川県秦野市、同座間市、岐阜県岐阜市、愛媛県西条市、熊本県および同熊本市、沖縄県宮古島市の各地下水条例は規定内容が充実した総合条例になっています。

地下水に関わる法律

一方、国による地下水保全の法制度整備は、必ずしも十分でないまま現在に至っています。現在も、わが国には総合的な地下水法は存在しません。1970年代に地下水法の制定が活発に議論された時期がありましたが、関係各省庁の意見が一致をみず、立法化には至らなかったのです。そのため、個別法や行政指導により対処されてきました。地下水に関わる法律にはさまざまなものがあり、所管もそれぞれ異なっています()。こうした断片的・個別的な構造を、水政策の統合化の観点から見直していくことが求められます。

地下水は誰のもの?

国が地下水規制に長らく積極的でなかった原因は、地下水の所有権・利用権の問題と関わりがありそうです。地下水の所有権について歴史をさかのぼると、地租改正にたどり着きます。租税徴収を目的とした地租改正に先立ち、資本主義経済になじむ強い私的土地所有権の確立が目指されました。明治憲法(1888年)では所有権の不可侵が定められ(27条)、民法(1896年)では所有権は自由な使用・収益・処分の権能を備えるものとされ(206条)、土地所有権はその土地の上「下」に及ぶと定められました(207条)。地下水が土地所有者のものであるとすれば、規制には消極的にならざるを得ません。

現在も「地下水は誰のものか」について明確な結論が出されているとはいえませんが、その法的性格は少しずつ公的なものへと変化してきているようにみえます。例えば、筆者の調査では、地下水を「公水」「公共水」等と定義したり、私的利用に対する公共的利用の優先等地下水配分のあり方に公共性が見て取られる条例が相当数存在します。国家法においても、水循環基本法(2014年)で「水は国民共有の貴重な財産であり、公共性の高いもの」(3条2項)と定められたのは大きな変化です。また、最近秦野市で、地下水保全条例により井戸を新設できなかった住民が、市に対して水道敷設費用の賠償請求訴訟を起こした結果、市が勝訴し条例の合憲性が認められたという裁判例がありました(2015年)。こうした法律や裁判例が現場の地下水政策にどういった変化をもたらし得るか、今後が注目されます。

「地下水ガバナンス」の考え方

従来の地下水保全管理は、各部署が所管業務を独立的に行う形態が大半であったろうと見受けられます。こうしたやり方が、地盤沈下やピンポイントの汚染といった従来型の問題の解決に高い成果を上げてきたのは事実です。

一方、時代が進むにつれ、地下水を取り巻く社会の様相が多面化しています。まず、地下水の用途が多様化しています。以前は飲用、上水道、産業用、消融雪用といった消費型用途がほとんどでしたが、近年は景観形成、観光資源等としてのニーズ、災害時緊急用水源としての重要性も高まっています。また、硝酸性窒素汚染のような面源汚染、農地減少による涵養の低下、湧水生態系の損失等、従来の規制的手法がそぐわない問題が各地に出現しています。気候変動による地下水への影響も懸念されますが、これらは「不確実性」を抱えています。利害関係者の意見を聞きながら、順応的に不確実性に対応していくことが求められています。

こうした中で、地下水保全管理に「ガバナンス」の考え方を取り入れようとする動きが国内外に見られます。ガバナンスの語源は“gubernare”で、「かじ取り」を意味します。船員が力を合わせて船を操り目的地に到着するように、地下水のガバナンスとは、さまざまなレベルにおける政府・非政府の主体が、おのおのの機能を発揮しつつ連携・協働することで、単独では成し得なかった問題解決や価値創造を可能にし、地下水の持続可能な保全と利用を達成しようとする試みといえます。

水循環基本法では関係者相互の連携および協力(8条)、水循環基本計画(2015年7月閣議決定)では関係者間の連携調整を行うための組織としての「地下水協議会」の設置推進等(第2部3(2)イ)、ガバナンスの観点から重要な規定が盛り込まれました。むろん規定ができただけでは、長い歴史で作り上げられてきた縦割り構造は変わりません。地下水政策における市民参加の仕組みも、多くの自治体では未整備の状態です。地下水ガバナンスを具現化するためには、さまざまな主体が地下水の問題を自らの問題と捉え、意思決定に参加していこうとする意識を持つこと、その体制整備に向けて働き掛けていくことが重要です。

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