日本の沿岸を歩く~海幸と人と環境と第32回 富山湾の寒ブリ漁を支える大型定置網
―富山・氷見

2019年11月15日グローバルネット2019年11月号

ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)

前回の滑川市から西に約50kmの氷見市に移動した。氷見市では、ブリ、アジ、サバ、スルメイカ、イワシなど季節に応じて多様な漁獲がある。「越中式定置網」として知られる定置網、八艘張網はっそうばりあみ敷網しきあみ)のほか、刺し網などがある。富山湾には水深1,000m超の海底まで落ち込む斜面「ふけ」(海底谷)があり、水深の浅い大陸棚との境である「ふけ際」は回遊魚が集まる絶好の漁場。氷見沖の大陸棚は湾内で最も発達しており、沿岸から5㎞くらいまで広がっている。定置網設置に都合の良い自然条件に恵まれているのだ。「ひみ寒ぶり」、「氷見いわし」は氷見のブランドだ。

●ブランドの販売証明書

翌朝6時前に氷見漁港にある氷見魚市場に駆け付け、2階の見学通路から競りを見学した。定置網の漁獲が8~9割を占め、水揚げと仕分け作業が続いていた。仲買人や漁協職員など100人ほどが参加して競りが始まると、競り人の掛け声が市場に響き渡った。

氷見魚市場の競り

競りを見た後、しばらくして氷見漁協を訪ねて参事の井野慎吾さん、総務部長の吉野一之さんに面会した。見学した競りの活況もさすがだな、と思っていると、その朝の魚の量は秋から冬にかけての最盛期の10分の1程度だというのだから驚きだった。

氷見で有名なのは晩秋から寒にかけての時期に漁獲される寒ブリだ。春から夏にかけて日本海を北上し秋から冬に南下してきた大型ブリが定置網に入る。富山湾の王者とされ、鳥羽一郎が力強く歌う『厳冬・富山湾』の中に真冬の寒ブリ漁の様子が出てくる。

氷見漁協は毎年6~7㎏以上の最高級のブリに「ひみ寒ぶり」の販売証明書を付け、統一デザインの箱に入れて出荷する。近年は養殖ブリの品質が向上してきたとはいえ、「脂の乗った冬の天然ブリは最高ですよ」と井野さんは自信を見せる。

ブリは成長とともに名前が変わる出世魚で、氷見では、ふ化から1年までの間、順にツバイソ、コズクラ、フクラギ(40cm程度)と呼び、さらに成長してガンド、ブリと変わる。日本各地にさまざまな呼び方があり、関西などでは40cm未満がハマチとして知られる。

昭和初期ごろまでは冷蔵設備がなかったため、塩ブリに加工し、飛騨高山を経て各地に送られていた。信州や飛騨では正月の魚として珍重され、その運送ルートは「鰤街道」と呼ばれた。

●氷見で生まれた大敷網

1988年に市沿岸の7漁協などが合併して生まれた氷見漁協は、地域漁業の核となっているが、海洋環境の変化や沖合いでの乱獲などによって沿岸地先では不漁が続き、経営環境は厳しいという。

定置網は、回遊魚が網に入るのを待つだけのようだが、井野さんは「網やアンカーを取り換える作業などがあって忙しい」と説明する。

定置網では多種の魚が捕れるが、流通販売の側から見ると、魚の規格がそろわず、計画的な出荷ができないことが不利になる。井野さんは「富山湾の恵みといえるキトキト(富山弁で新鮮で美味の意)で多様な魚に相応の魚価がつき、漁業者の収入増によって地域の漁業が元気になってほしい」と願っている。

富山湾沿岸で定置網は、400年以上前の天正年間(1573~92年)に始まったとされる。ブリの大型定置網「大敷網おおしきあみ」は1892年、宮崎県で考案され、以後、改良が重ねられた。現在は「二重落とし」と呼ばれる形式が主流。回遊してきた魚を誘導する「垣網かきあみ」、魚が最初に入り込む「囲い網(角戸網かくとあみ)」、次に「身網みあみ(主網)」へつながる。その身網の先は網目が細かく、最後に魚を捕る「落とし網」だ。魚の習性を知り尽くした構造で模型を見ると工芸作品のような美しさがある。

かつて「台網」と呼ばれていた定置網の歴史に興味を引かれたので、漁港近くの氷見市漁業文化交流センターを訪ねると、木造和船や漁具などとともに、天井いっぱいに全長80mの越中式定置網が展示してあった。模型や手書きの説明文なども充実しており“定置網王国”の迫力を感じさせた。

他に氷見の漁法として知られる八艘張網漁がある。夜間に集魚灯で集めた魚を海底に広げた網ですくい上げる漁法だ。一辺が約40mの八角形をした巨大な網を8隻の漁船が引き揚げる。魚への衝撃が少なく魚はキトキトになる。

定置網が展示されている
氷見市漁業文化交流センター

●湾越しに立山連峰望む

氷見市は登録有形民俗文化財「氷見及び周辺地域の漁撈用具」を市立博物館、市文化財センターが収集、展示している。博物館を訪れると「氷見の漁業」の展示では、定置網に使われた用具や和船、船大工用具、信仰用具などが多数展示されていた。とくに興味を引かれたのは藁網で、化学繊維が一般に普及する以前は、大敷網の垣網を中心に使われていたという。1955年ごろまでは漁期ごとに年3回網の入れ替えをし、古くなって傷んだ藁網はおもりの石俵とともに海底に沈められた。

藁はプランクトンなどの餌となり、そこに小魚、さらに大きな魚が集まる。産卵場や回遊してくる魚の漁礁の役割も果たしていた。ゆっくり分解されるので、環境への負荷も小さい。定置網のおもりに使う石俵は農村から米を運んだ後の余剰物だった。漁業と農業の間で物質循環が出来上がっていたことになる。

藁はかつて日本人の生活に欠かせないものとして、資材(縄、畳床、俵やカマス、ぞうり、ミノ、壁土に塗り込む補強剤、納豆床など)、建材(屋根葺き材)、燃料…と実に有用なものだった。

氷見が誇る定置網は、自然と共存する循環型であり、SDGs(持続可能な開発目標)にかなうように思う。その話題性を何とかビジネスにつなげてもらいたい。6次産業化への取り組み、農産物直売所での鮮魚販売など、販売方法は時代とともに変化している。水産物の高付加価値化には知恵と試行錯誤が必要だろうが、WEBサイトやSNSなどによる情報発信、マーケティングなどが考えられる。海が好き、魚好きなら、必ず氷見の魚を食べたくなるはずだと思うのだが。

氷見漁協を後にして、東の新湊へ向かう途中にある国定公園雨晴海岸で一休み。海岸からは富山湾越しに立山連峰を眺望できる屈指の絶景地。源義経が奥州へ落ち延びる途中、雨宿りをしたという「義経岩」があり、地名「雨晴」の由来ともなっている。高岡市にある雨晴海岸から氷見市の松田江の長浜までは「白砂青松はくしゃせいそう100選」「日本の渚百選」に選ばれている。

すぐそばの道の駅「雨晴」には、大伴家持の歌碑と松尾芭蕉の句碑が並んでいた。展望台から富山湾越しに眺める3,000m級の立山連峰は雄大だ。青い海に目をやると定置網のブイが浮かんでいる。

海岸に沿って走るJR氷見線に列車がやって来た。普段は列車に乗ることを楽しむ「乗り鉄」派なのだが、ここでは「撮り鉄」に変身。絶景のシャッターチャンスを逃してなるものかと、集中した。

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