特集/コロナ禍から見えてきた環境破壊の罪①~感染症と自然環境との関係とは~ポスト・コロナの思想~新しいエコロジーに向けて

2020年06月15日グローバルネット2020年6月号

京都大学人文科学研究所 准教授

藤原 辰史(ふじはら たつし)

 新型コロナウイルスの感染拡大が世界的に広がり、グローバル化された世界の社会・経済は大きな打撃を受け、その脆弱性が浮き彫りになっています。ウイルス発生の背景には、人類が自然を無視し、経済活動を進めてきたことによる生態系の破壊がある、とする声もあり、人間の社会が自然環境と密接に関わっていることを改めて認識する必要があるといえるでしょう。
 今月号と来月号の2号にわたり、未知のウイルスと闘い克服し、強靭で持続可能な「コロナ後の社会」をどのように築いていくべきか、考えます。まず本特集では、文明社会と感染症の関係と歴史、そして自然環境の変化が人間の健康に与える影響について確認し、人間は自然環境といかに関わっていくかについて論じていただきます。

 

「経済活動」か「無害な空気」か

京都の空気のきれいさに気付き始めたのは、3月くらいからである。ひょっとして、新型コロナウイルス感染の拡大による自動車などの排気ガスの減少が、それを可能にしたかもしれない、と推測した。実際、4月ごろからその仮説は世界中の新聞で証明されていく。

東京では富士山がきれいに見える日が増えた。パリも、エッフェル塔がはっきりと見えるようになった。インドでは大気汚染で色が変質していたタージ・マハルの模様が、澄んだ空気の中でくっきりとカメラに捉えられた。大気汚染に苦しめられてきた都市が次々に清浄な空気を取り戻したのである。

京都の鴨川から見える周囲の山は、いつもよりはっきりと若葉の色を伝えてくれる。空気がうまい。京都は空気が澄んでいる方だと思っていたが、ここまで気管支と肺に負担を掛けてきたとは。

大気汚染が人体の健康に及ぼす影響が甚大なことは、四日市ぜんそくをはじめ、光化学スモッグ注意報など、私たちは歴史や日常から学んできたはずだった。しばしば報道されているように、新型コロナウイルスは、空気を汚染してまで経済を成長させる人間の行為の愚かさを、多くの犠牲を払って強制的に人類に教えたのである。

経済活動しなければ人は食えない

とはいえ、「経済活動」をしなければ雇用は削られる。しかも、大企業の役員から削られるのではなく、末端の外国人労働者や派遣労働者から切られていく。社会の差別構造は危機になればなるほど露骨になる。仕事がなければ家賃が払えず、食費も稼げない。衣食住が失われるくらいであれば、大気汚染や河川汚染くらいは我慢するのが人間の性である。空気がきれいになったからといって、このままずっとステイホーム、とはならない。自然破壊の猛威に目を奪われすぎて、市場原理の猛威を等閑視するエコロジーを、私は「見かけのエコロジー」と呼んでいる。動植物の種の多様さにばかり目を奪われ、「人間」の多様さに目を閉じてしまう傾向のあるエコロジーである。現在も「見かけのエコロジー」を唱える人は少なくない。

しかし、だからといって、コロナ以前の経済活動を「復元」しようという経済決定主義者の議論も単純だろう。なぜなら、コロナ前から経済先進国の経済活動は、慢性的に失業者を抱え、派遣労働者の福利厚生をカットし、低賃金に伴う生命維持のリスクを、それぞれの身体調整と精神力と家族愛に押し付けてきたからである。

さらに、経済先進国の経済活動は他国に及んできた。先日、アジア太平洋資料センター(PARC)のドキュメンタリー映画「スマホの真実」を観た。スマートフォンのあの振動に必要な小さくても重量のあるレアアースを確保するために、日本、中国、欧米の企業は、アジアやアフリカや南米で採掘されたそれを買いあさっている。その富をめぐってアフリカの採掘地を軍事組織が襲い、民族間の紛争が生まれているし、フィリピンでは森林を削り、山を削ったために川も海も、食べ物の貝までも汚染され、消化器の疾患や皮膚病などが多発している。明治期の日本を震撼せしめた足尾銅山鉱毒事件と同様の光景に言葉を失った。南米では開発地に住む住民たちが開発を誘導する政府と企業に対して抗議運動を繰り返し、自然を破壊しないで済む方法を探っていた。公害も汚染も輸出されるのである。

いくら雇用を確保しなければならないからといって、国家が他国の住居環境を破壊してよい、という権利は誰にもない。軍需産業の雇用を確保するために、戦争を起こしてもよいという権利が誰にもないように。

象徴としてのトランプ

ひたすら経済「成長」のために、人間の生命の別名である「労働力」と、自然界のアクターたちの長期にわたる相互作用の別名である「自然資源」を市場に捧げ続けることは、実は経済活動の目的だったはずの「衣食住の充実」を阻害してきた。

新型コロナウイルスが世界を席巻する中で、経済活動か自然保全かという二項図式ではなく、過剰な経済成長熱が経済活動と自然環境を両方ともに破壊する、という図式が明らかになってきている。開発を制限しながら経済活動を続ける試みが、地球に優しい「持続可能な経済成長」という、結局のところ修正版経済成長主義にすぎない路線に妥協点をみる「見かけのエコロジスト」たちによって無視され続けている。では、見かけのエコロジーではないエコロジーとは何か。

アメリカの科学ジャーナリスト、ソニア・シャーは、雑誌『ザ・ネイション』に寄稿した2020年2月18日の記事「エキゾチックな動物たちはコロナウイルスの責めを負うべきなのか? もう一度考えよう」(※ Sonia Shah, Think Exotic Animals Are to Blame for the Coronavirus? Think Again.,The Nation, FEBRUARY 18, 2020.)で、次のように述べている。

新型コロナウイルスのそもそもの発生源は、センザンコウやコウモリやヘビなどが挙げられているが、動物のせいにすべきではない。そもそもライム病にせよ、エボラ出血熱にせよ、SARS(重症急性呼吸器症候群)にせよ、近年の感染症は野生動物に起因するものが多いが、その多くが、野生動物の生活世界と人間の生活世界が、資源開発による自然破壊で近づきすぎたためだという。鉱物や森林の大量採取に伴い動物の居住世界が縮減され、たとえば西アフリカで大規模な森林伐採が行われた後、生存環境を追われたコウモリが果樹園の果実を食べにやって来て唾液を付け、それがエボラウイルスまん延の原因になったという事例も挙げられている。さらに、ウェットマーケットと呼ばれるような生体のままの動物の取引や、希少種の闇取引も依然として続けられていることも無視できないという。

重要なのは、シャーが大規模畜産も感染症のリスクを高めるものだと批判したことだ。私も、ポール・ロバーツの『食の終焉―グローバル経済がもたらしたもうひとつの危機』(神保哲生訳、ダイヤモンド社)などを引用しながら、現在の経済活動を続ける限り、食を通じた感染症が発生する可能性について警告したことがある(※『戦争と農業』(集英社インターナショナル、2017 年))。それは大規模なケージ飼育によって弱っている鶏たちが、水鳥が運ぶインフルエンザに感染し大量死を引き起こすだけでなく、人間に感染するウイルスに変異する可能性である。しかも、こうした大規模畜産経営と表裏一体の関係にある大規模食品工業は、動物たちを苦しめるだけではなく、そこで厳しい労働環境にさらされる人びとに感染症の危険をもたらす。

今のアメリカはその象徴だ。4月に米国のトランプ大統領は、食肉処理工場でクラスターが発生し、3,300人程度が感染し、約20人の労働者が新型コロナウイルスで亡くなったにもかかわらず、工場の操業継続命令を下した。また、シャーはこう述べている。「アメリカでトランプ政権が、採掘業、またその他すべての企業活動からあらゆる規制を取り払おうとしていることは、動物の生息地の消滅問題を深刻にしないはずがない。これは動物からヒトへの微生物の移転を助長するだろう」。

真のエコロジーとは

これまで世界の経済先進国は、大規模生産ではない小規模多様型食料生産、森林伐採をしすぎない建築、地下資源を採掘しすぎない工業生産という「経済活動」を考えこそすれ、主軸に据えてこなかった。国や企業のイメージアップのために用いられてきた「見かけのエコロジー」が、真のエコロジーにスモッグをかけてこなかったか。トランプを支持する者たちがエリート層を見限った理由の一つは、環境言説の過剰な美しさにあったのではないか。真のエコロジーとは、食肉工場の労働者の感染を放置せず、低賃金によって人間の生存条件を阻害せずに、開発地域の住民と野生動物の生活環境を同時に阻害しない思想であり、人間の内なる自然と外なる自然を接合して活性化する思想だと私は考える。それは必然的に、人間観も自然観にも及ぶ根源的な知の変革につながるはずだ。

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