地域から世界をみつめる鹿児島環境学という試み

2022年01月17日グローバルネット2022年1月号

公益財団法人 屋久島環境文化財団 理事長
大正大学 客員教授
小野寺 浩(おのでら ひろし)

 1992年の「国連環境開発会議(地球サミット)」で採択された、持続可能な開発についての行動計画「アジェンダ21」に地域社会主導の取り組みの重要性が盛り込まれてから、今年で30年。そこで、今年最初の特集は「地域から世界を見つめる」というテーマを掲げ、地域市民である私たちが地球規模の問題に立ち向かうため、「地域を知り、地域で学ぶ」ことについて考えます。
 昨年、公式確認から65年を経た水俣病について、理解をさらに深め、私たちが今後考えるべきことを探るため、現地で関係者に取材しました。さらに、地域の環境について学び、失ってしまった自然に対する感性を取り戻すことが重要だと唱える「鹿児島環境学宣言」や、奄美群島での自立的発展に向けた取り組みから、今後のより良い社会・環境のために、私たちは地域社会から何を学び、どのような価値観を持ち行動を変革していくべきか、考えます。

 

環境問題、環境行政の特徴と難しさ

行政の立場で環境問題に幅広く取り組んできた経験が、今の私の環境問題の理解に大きくつながっている。

発足したばかりの環境庁(当時)に入り、霞が関の高層ビルではなく、国立公園の現場で、市町村よりさらに現場に近い所でもっぱら自然保護を中心に仕事をしてきた。また、国土庁に出向し全国計画を作り、鹿児島県庁に出向し水俣問題も担当した。どちらも環境庁の人間は私だけであったから、自然保護はもちろん、水質、大気、水俣、ごみ、原発、水道まで担当し、知事やマスコミに聞かれれば答えなければならない。国土庁時代に一通りの勉強をし、県庁で実務としてこれら広義の環境問題に取り組んだ。

環境問題、自然保護問題の難しさの理由の第一は、原因が結果を引き起こすまでに長い時間がかかることである。これは同時に、因果関係の科学的証明が困難であることにもつながる。水俣病では、原因物質である有機水銀が工場廃液として流し出されてから、政府が認定するまでに40年近くを要した。専門家が特定してからも10年以上放置され、その間にも被害は拡大した。

戦後の高度経済成長時の巨大な国土開発、自然破壊は、多くの生物種を絶滅、または絶滅が危惧されるまで追い詰めた。逆に、シカのような特定の種の激増現象が現われるのにも、半世紀近い時間がかかっている。地球温暖化問題は、人類が化石燃料を大量に燃やし始めてから100年単位の問題である。

環境問題の難しさのもう一つは、原因となる行為、事象の主体が、特定の工場やゼネコンだけではなく、私たち一人ひとりの暮らしや意識に起因するということだ。被害者が加害者でもあるという複雑な関係である。

環境行政が他の行政分野と最も異なるのは、国の対応がほとんどの場合最後になるということだ。問題はまず現場で起こる。この段階ではまだ因果関係ははっきりせず、国は対処のしようがない。マスコミや運動体が取り上げて市町村が動き、次いで県経由で国に上がり、相当悲惨な状況になってようやく予算や立法などの制度的対応がなされる、というのがこれまでの日本のパターンであった。

鹿児島環境学宣言

環境省で仕事をしながらいつも悩んでいたのは、国の役割として優れた貴重な自然を守ることと、その自然が存在する地域の暮らしや経済との関係をどう調和させればいいのかということである。

中央官庁で仕事をしてきた私が鹿児島大学に来たのは2007年、役所を辞めてからのことである。学長と相談して、地域環境学という新しい分野に取り組むことにした。

そこで始めたのが鹿児島環境学である。目的は、地域側から環境、自然保護を考えてみようというものであった。それはすなわち、地域にとっての自然保護の意味を問うことである。大学という地域の知的集団が現場に即して環境問題を考えることで、この大問題への新たな切り口を提示できるのではないかということでもあった。

2008年1月24日、鹿児島大学の稲盛会館でシンポジウム「鹿児島環境学への提言」を開催した。その冒頭で「鹿児島環境学宣言」が読み上げられた(囲み)。この宣言は原案を私が書き、研究会メンバー14名の議論によって作成された。

「鹿児島環境学宣言」

 環境問題は21世紀最大の課題である。それは二重の意味をもっている。第1は外部にある環境の破壊であり、第2は私たちの内にあった自然に対する感性の喪失である。

 環境問題は自然科学や技術文明の、あるいは政治や制度の問題である。また、芸術や市民運動、地域づくりの課題でもあるだろう。しかしより根本的には、自然の一部としてのヒトと、自然を操作する主体としての人間、この人間存在の二重性と矛盾から生じるものである。さらには私たちがいまだ、これらを刺し貫く思想と価値観を見出せないということでもある。

 テーマは複雑多岐にわたって、これまでの学問領域を軽々と超えるだろう。解決の手掛かりは机上ではなく現場にある。現場とはすなわちそこにある自然であり、自然とともに生きてきた人間の歴史の謂である。長い時間が積み上げてきた人々の知恵を驚きとともに発掘し、現代の知性を大胆に加味して、未来への新たな関係を紡いでいくこと。解決への道筋は、現場でのそうしたねばり強い作業にこそある。

 自然、環境との共生や調和に必要なもの。それは私たちを取り巻く自然、環境の回復と再生である。しかし同時に欠かせないのは私たち自身の再生である。このための試みは、科学的、論理的、かつ体系的であることが求められるだろう。ただそれ以上に大事なことは、取り戻したいきもの達への感覚と地域の暮らしとの緊張感の中で、現場に即した具体性とでもいうべきものを発見していくことにある。

 私たちは、精緻な批評であるよりは、例え小さくても具体的な提案を目指す。世界と未来に向けて確かなものを提案するために、ここ鹿児島であしもとを見つめ直すことから始める。それが鹿児島環境学の出発点である。

鹿児島環境学の具体的取り組み

地域環境学という新しい分野で成果を出すには、チーム編成や手法もこれまでにない斬新なものでなければならない。そこで次のようなことを方針とした。

① 若手の教官とチームをつくる:職歴の長い教授には様々な意味でのしがらみがあり、現状を肯定せざるを得ない立場である。新しい試みには概して向かない。

 

② 学部横断型のメンバーにする:環境問題は、自然科学や社会科学の一分野では到底収まるテーマではない。学内の幅広い知見を集める必要があった。

 

③ 学外メンバーを入れたチーム編成にする:大学がしばしば現実社会と遊離してしまうのは、現場の生の声と向き合う機会が少ないからである。現実の緊張感と接するために、マスコミ、民間美術館学芸員、通訳、県庁職員などが参加した。

 

④ 教官と事務官は対等の扱いとする:本来、大学において教官と事務官は一体として大学運営に当たるべき存在である。しかし現実には教官は自分たちの研究教育が支えていると思い、事務官は予算執行などの大学運営実務は自分たちが支えていると思っている。どちらも正しいが、問題はしばしば不毛な対立が生まれてしまうことにある。

 

⑤ 毎年1冊市販の本を出して、鹿児島中の本屋に並べ、年1回は一般向けのシンポジウムなどイベントを開催する:鹿児島環境学は、5年間で6冊の本を出版し、南日本出版文化賞も得た。毎年のシンポジウムは尻上がりに聴衆が増え、2011年の奄美徳之島のフォーラムでは、人口2万5,000人の島に400人を超える人が集まった。会場からあふれた百数十人は、隣のロビーで大型スクリーンに見入った。3時間を超える議論にも帰った人はほとんどいなかった。

自然保護を現場から再編する

わが国の自然保護には特徴がある。それはある種の潔癖性や完全主義的傾向とでもいうべきもの、一言で言えば原理主義である。わが国の自然保護のこうした傾向は、社会全体が経済を第一の優先的な課題とし、国土開発を猛スピードで推進してきたことへの、いわば反作用であった。圧倒的な勢いの経済、開発に抗するデモのシュプレヒコールは「断固粉砕!」であり、「調整」や「バランス」では元気が出ないのである。

しかし、ここに来て大きな変化が見られるようになった。日本社会は、これまでの経済一辺倒から徐々に変質してきた。つまり、経済の急成長と停滞、バブルとその破綻などさまざまな局面を乗り越える中で、社会意識も変化する。自然保護行政を再編するためには、こうした社会状況の変化を踏まえて行わなければならない。まず求められるのは、これまでとは違う発想の自然保護のための新しい理念をつくることである。

新しい自然保護理念と新しい施策を見つけ出すには、具体的な事象や個別地域の中から発掘していくしかない。模倣すべきモデルはどこにもなく、モデルをつくるためのヒントは、東京ではなく地方の、より問題がクリアに出ざるを得ないところにある。それは例えば屋久島や奄美などの現場である、というのが鹿児島環境学の出発点であった。暮らしの向こう側に自然保護があるのではなく、生活と自然保護は分かち難い関係性の中にある。暮らしが豊かであることが保護を充実させるための基本的要件であり、これが新しい自然保護理念の柱の一つになるであろう。

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