日本の沿岸を歩く―海幸と人と環境と第63回 魚の直販&浜売りで持続可能な漁業をー広島県・尾道/福山

2022年06月15日グローバルネット2022年6月号

ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)

 

農林漁業者自らが生産から加工・販売まで一貫して行ったり、2次・3次産業と連携したりする取り組みを6次産業化という。尾道の漁業者は、この言葉が生まれる前から、自分たちが捕った新鮮な魚介類を消費者に直接販売している。東隣の福山では漁から戻った漁船から客が魚を買う「浜売り」が人気を呼んでいる。

●魚価低迷で朝市始める

昨年12月の早朝、尾道駅近くの宿から自転車で尾道漁業協同組合(藤川伸一組合長)に向かった。街はまだ暗く商店街には人気がない。漁協のそばには日本映画の巨匠、小津安二郎監督の『東京物語』のロケ地、浄土寺がある。

筆者が新聞社を退職したのも、フリーになって漁業を取材し始めたのも尾道なので、少しばかり詳しい。

漁協は、正組合員60人で刺し網20隻のほかに釣りの遊漁船もある。漁協に着くと、テントの店舗で魚をさばいて開店の準備が進んでいた。「今日は風があって漁獲は少ないよ」。たき火で暖を取っていた理事の仁田俊さんが声を掛けてきた。最近まで自分の捕った魚を調理するユニークな漁師料理を経営していた。

売られている魚はタイ、ヒラメ、チヌ、ハマチ、アカエイ、アコウ、オコゼ、コウイカ、メバル、カワハギ、ナマコなど多彩だ。多くが生きている。少し明るくなったころ、常連客とみられる人たちがやってきた。さばいてくれるよう気軽に頼める。

朝市は2000年に市内の尾道、吉和の両漁協の有志で結成した「漁業後継者クラブ」が始めた。尾道漁協は若手を中心に有志による「尾道新鮮組」(浜田誠治代表)が取り組んだ。委託販売ではなく組合員から魚を買い取って販売している。ライフスタイルや流通の変化で地魚の価格が低迷したため、収入を増やして持続可能な漁業を目指している。積極的な漁協の取り組みはメディアにもよく紹介される。

早朝に尾道漁協で開かれる朝市

尾道漁協の西4kmほどにある吉和漁協は歴史のある漁協だ。1336(建武3)年、京都攻めで敗れ落ち延びた足利尊氏は、浄土寺で戦勝祈願をした後、吉和の漁師を水先案内にして九州へ攻め入って勝利した。尊氏は再び京都で室町幕府(足利幕府)を興した。吉和の漁師が戦勝を祝って踊ったとされている「吉和太鼓踊り」が、広島県無形民俗文化財になっているなど、古くからの漁民文化が根付いている。船を住居として生活する家船えぶねが多数漁港に係留されている光景も太平洋戦争後まであった。

尾道漁協の次はJA尾道市の直売所「ええじゃん尾道 尾道店」を訪ねた。尾道、吉和を含む市内6漁協が共同で「漁師のさかな屋」を出店している。直売所は2008年オープン以来、人気の買い物スポットになっている。午前9時の開店から客が詰め掛け、魚、刺し身や干物に加工したものなどを次々に買っていた。「尾道の魚」はブランド力があり、広島市内の飲食店なども取り寄せているほどだ。

直売場にある「漁師のさかな屋」

尾道では漁師の奥さんが魚を手押し車に乗せ、路上売りする「晩より」もある。尾道で女学生時代を過ごした小説家、林芙美子は『風琴と魚の町』でかつての様子を書き記している。

農産物直売所で鮮魚を販売すると集客力が高まる。三浦半島(神奈川県)の農産物直売所「すかなごっそ」(本誌2019年9月号)には「さかな館」が併設されていた。他の取材でもJAおちいまばり(愛媛県今治市)が運営する「さいさいきて屋」、JA糸島(福岡県)の「伊都菜彩いとさいさい」を思い出す。

●漁船から魚を直接購入

ええじゃんの取材を終えると、東の沼隈半島に進み、橋を渡って田島、横島(いずれも福山市内海うつみ町)へと進んだ。横島漁業協同組合(渡邉冬彦組合長)開催の「漁師の浜売り」を見るのが目的だ。

漁協近くに二つの会場が設けられ、着岸した漁船から直接、魚介類を購入できる。2014年から11~3月までの土日、祝日の午後2時から開かれている。

訪れた日は天候が悪く、出漁したのは2隻だけだったが、漁港には100人ほどの客が待ち構えていた。一隻の底引き網漁船が戻ってくると、客がどっと船の着いた船着き場に集まる。船には漁協浜売り部会長の村上正さんと奥さんが乗り込んでおり、早速魚介類をいけすから出して仕分けし、販売が始まった。漁や調理方法などについて客と和気あいあいと言葉を交わす光景は楽しい。多くは常連さんで順番を待ちながら買っていく。買った客はどれも満足顔。そうだろう、これ以上ない新鮮な魚、究極の対面販売なのだから。

広島県東部(備後地域)では他にも規模や形態は多少異なるものの、魚の直接販売が存在する。

さらに田島では自家養殖したノリの加工品を販売しているマルコ水産で佃煮を買った。広島県東部では近年、ノリやカキの養殖が増えている。

横島漁協の浜売りで漁船に集まる客

●埋立て架橋計画は中止

最後にたどり着いたのはともの浦。満潮時に沖で東西からの潮がぶつかり、潮待ちの港として古くから栄えてきた。現在も古い町並みが残る歴史の町だ。奈良時代の歌人、大伴旅人は大宰府赴任の途中、立ち寄っている。730年(天平2)年、2度目の赴任を終えて奈良に帰る途中、大宰府で急死した亡き妻への思慕を歌っている。

その歌を刻んだ「むろの木歌碑」があるのは、江戸時代に朝鮮通信使の迎賓館として使われた福禅寺対潮楼のすぐそば。通信使の従事官は客殿から見た仙酔島や弁天島の美しさを絶賛したと伝えられる。

ほかにも、織田信長により京を追放された将軍足利義昭が1576年に鞆に拠点を移して「鞆幕府」と呼ばれたり、江戸時代には紀州藩の軍艦に衝突され沈没した「いろは丸」(坂本龍馬の海援隊が運航中)の損害賠償交渉が行われたりした。近代化の波には取り残されたが、鞆の浦は古い港町の魅力を今に伝える観光地として存在感がある。薬草を漬け込んだ特産「保命酒ほうめいしゅ」や観光鯛網など話題は尽きない。

常夜燈、階段になっている船着場である雁木がんぎ、波止場、ドック(船渠せんきょ)のような焚場たてば、船番所など今も残る江戸時代の港湾施設が『鞆の浦慕情』(歌:岩佐美咲、作詞:秋元康)に歌い込まれている。

さらに箏曲『春の海』(1929年)を作曲した宮城道雄は失明する前に見た鞆の浦のイメージを曲にした。アニメ映画『崖の上のポニョ』(2008年公開)は、宮崎駿監督が鞆で構想を練った。

経済や文化が成熟した歴史の土壌の上に、漁協の直販や浜売りなどの新しい取り組みがあるのだと、夕暮れの鞆の浦で感じた。

こんな鞆の浦を埋め立てる架橋計画が立てられたが、歴史景観を守ろうという住民たちの粘り強い反対運動の結果、6年前にとん挫した。近くに昭和の街を再現したレジャー施設「みろくの里」があるので、昭和の流行語を借りれば、計画中止は「あたり前田のクラッカー」(当たり前)だった。

タグ:,