日本の沿岸を歩く海幸と人と環境と第68回 天恵戒驕の教え守り海の恵みを享受ー岩手県・重茂

2022年11月15日グローバルネット2022年11月号

ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)

前回の釜石取材を終え、三陸鉄道で北へ1時間半の乗り鉄旅。宮古駅に着いて近くで宿泊した翌日、県南東部にある三陸海岸で最大の重茂おもえ半島に向かった。訪問先は重茂漁業協同組合。経営理念としている「天恵戒驕てんけいかいきょう」に大変興味を引かれ、取材先に選んだ。天の恵みに感謝し、おごることを戒め不慮に備えよ、という意味だ。自然環境に配慮した長年の漁業は好業績であり、SDGsの取り組みとしてふさわしいと思った。

重茂漁港

●親潮と黒潮交わる漁場

太平洋に突き出した重茂半島。三陸復興国立公園(2013年創設)のほぼ中央に位置し、本州最東端の魹ヶ崎とどがさきがある。北は宮古湾、南は山田湾に囲まれている。沖は親潮と黒潮が交錯する豊かな漁場だ。

漁協のある重茂地区(宮古市)は半島北部にあり、組合員は488人(3月末)。ワカメやコンブの養殖、採介藻漁業、定置網漁が中心で、加工事業や直売所も手掛けている。養殖ワカメの生産量全国一の漁協だ。

漁協の加工施設敷地内にある宮古市重茂水産体験交流館「えんやぁどっと」を訪ね、業務部部長の後川良二さんに面会した。施設は水産加工品製造などが体験でき、水産加工品の展示直売もしている。

水産体験交流館「えんやぁどっと」

後川さんが最初に話したのは2011年の東日本大震災のエピソード。沿岸を襲った巨大津波の写真を示しながら「波の色が真っ青でしょう」。これは海がきれいな証拠であり、被災者も飲んだ海水を吐き出させると回復し、犠牲者が少なかったという。確かに当時の映像で見たヘドロのような黒い波とは対照的である。

それでも被害は壊滅的だった。重茂地区459世帯のうち91世帯の家屋が被災し、漁協組合員保有の漁船814隻のうち98%の798隻を失った。ワカメやコンブの養殖施設、加工場、アワビの種苗センター、サケのふ化場などが失われ、漁協の被害は総額72億円に達した。

復旧への取り組みは迅速だった。震災翌日には災害本部を設置、漁船建造の手配や養殖施設の再建に着手した。1カ月後には漁協自営のサケの定置網漁を再開。天然のワカメやアワビの水揚げを行い、その収益全額をすべての組合員に分配した。そこには組合が大切にしてきた相互扶助の精神があった。

震災前から収益や将来設計、資金力など堅実経営が続いており、復興の力となった。その根幹が冒頭の天恵戒驕の精神だ。提唱した初代組合長の西舘善平氏は1949(昭和24)年、漁協に招かれた元小学校の教諭。目先の収益を追い求めるよりも、地域の自然を大切にして持続可能な漁業を子孫に伝えようと訴えた。

初代組合長の西舘善平氏の像

海を大切にする取り組みの一つが合成洗剤の不使用だった。1970年、ワカメの販売先となった生活クラブ生協(東京)の合成洗剤追放と石けん普及の活動に賛同し、1980年5月の通常総会において、地域で合成洗剤や合成シャンプーの使用を重茂地区内でやめることを決議した。

漁港の防波堤から見える外洋、湾の様子は三陸の海の深い青色できれいだった。高台に建設された重茂漁協本所にある西舘氏の銅像が、海の方向を眺めていた。

三陸沿岸はコンブ、ワカメ、フノリ、ヒジキ、アカモクなどさまざまな海藻が育つ。中でもワカメは国内産の7割を三陸産が占め、岩手県の生産量は宮城県に次いで全国第2位。リアス式海岸の恵まれた自然の中で育ち、肉厚で弾力がある高級品になる。

ちなみにワカメの養殖は大船渡市末崎町の小松藤蔵とうぞう氏が試行錯誤の末に1957年に実用化に成功、三陸沿岸など各地に赴いて養殖ワカメの普及に努めた。

●無駄省いて生産性向上

収穫(最盛期は3~4月)したワカメは、湯通し塩蔵や芯抜きなどを入念に行う。全体の3割程度の生での出荷分を漁協自営の加工場で、他は組合員各自が加工する。重茂漁協の「重茂産肉厚わかめ」(主に生活クラブ生協向け)や新芽のワカメの「春いちばん」は人気のブランドだ。震災後毎年3月11日に復興商品として新商品を発売しており、10年目の集大成は昨年の「焼うにクリームパスタ」。復興商品の蓄積を生かして今後も通常商品の開発は続けるという。

漁協の年間収益は約18億円で震災前の水準に近づきつつある。加工場は「トヨタ式カイゼン」指導を震災翌年から3年間受け、40%以上の生産効率アップを実現した。組合員の6割近くは後継者確保のめどが立っており、これは全国平均よりはるかに多いという。後川さんは「これまでの漁協の経営方針が組合員から信頼を得ている証しだと思います」と話す。

組合員の生活設計の指導にも力を入れてきた。「近年では、ワカメやコンブの価格高騰もあって年収3,000~4,000万円の家庭の例もあります」と後川さん。次世代を担う子どもたちには地域の文化を継承してもらうため、伝統の新巻きザケ作りやワカメのメカブ削ぎ作業を体験させている。

取材の最後に加工場を見学した。そこで後川さんに、海から魹ヶ崎とどがさきを訪問する計画が高波で中止になったことを告げた。すると乗船予定だった漁船のガイドは漁協理事の木村民茂さんで、重茂マツタケ組合の組合長だとの情報。さらに重茂地区周辺の赤松林ではいたるところでマツタケが採れるという。後川さんは「震災の前年の秋には異常に多くのマツタケが採れたのでびっくりしました。大震災の予兆だったのでしょうか」と不思議がった。

●明暗分かれた津波対策

漁協を後にして、北にある浄土ヶ浜へ向かい、岩手県立水産科学館を訪ねた。漁法や資源など漁業の詳細がよくわかる充実した展示だった。

さらに北上して田老地区(旧田老町)へ。明治三陸大津波(1896年)と三陸大津波(1933年)で壊滅的な被害を受け、「万里の長城」と呼ばれる巨大な防潮堤を造ったが、11年前の津波はこの防潮堤を越えた。壊滅を免れた第二線堤は原形復旧し、倒壊した防潮堤は新たに第一線堤として整備が進んでいる。近くには震災遺構「たろう観光ホテル」や道の駅「たろう」などがある。

取材前に『三陸海岸大津波』(吉村昭著、2004年)を読み、自然の脅威へ思いを新たにしていたが、現実は想像を超えていた。津波には高台移転が有効なのだが、住民の多くが漁業関係者であるため、目の前の「宝の海」から遠くには離れられないのではと思った。

さらに翌日にかけて三陸海岸の景勝地、北山崎などを回った。普代村の巨大津波から村を守った太田名部防潮堤(高さ15.5m)と普代水門(高さ15.5m)を近くで見た。建設計画に「巨大過ぎる」と反対意見も多かったが、和村幸得村長は「3度目の津波の悲劇は起こさせない」との強い決意で住民を説得したという。

天災に備える人間の予測や判断は人によって異なる。人間の憂いとは無縁のように、普代村の海は白波と青空がとてつもなくきれいだった。出漁中に津波で亡くなった父親の分まで生きてやろうという息子の覚悟を、岩手県出身の高城靖雄が『ああ…あの日の三陸』(作詞作曲:吉幾三)で歌っている。

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