21世紀の新環境政策論 人間と地球のための持続可能な経済とは第58回  日本のカーボン・プライシング、テキスト 『SDGsの基礎』、イザベラ・バード

2023年03月15日グローバルネット2023年3月号

武蔵野大学名誉教授、元環境省職員
一方井 誠治(いっかたい せいじ)

今回の原稿を書くにあたり、最近の私の関心事を端的に挙げるとこのような三題噺風のタイトルになりました。最初の二つは最近の出来事ですが、三つ目は明治の初めに来日した英国人女性旅行家の話です。

理解に苦しむ日本のカーボン・プライシング

研究者をはじめとする環境問題の関係者の間で、気候変動問題に対する実効性のある有力な政策手段とみなされている「カーボン・プライシング」は、日本ではこれまで、なかなか本格的に導入されてきませんでした。それが、昨年末のパブリックコメントを踏まえて、今年2月にの「GX(グリーントランスフォーメーション)実現に向けた基本方針」として、閣議決定され、にわかに動き出しています。その背景にはEUのグリーン・ディールをはじめ、世界的な脱炭素化を巡る政策の活発な進展があるように思われます。

その内容は、ごく簡単にまとめると、①政府は、自主的な削減目標を掲げ、排出削減に貢献する自主参加企業により構成されるGXリーグを発足させ2026年からの本格稼働を目指して試行的な取り引きを始めること、②政府は、GX経済移行債を創設して20兆円を調達し企業への先行投資支援を行うこと、その償還財源として成長志向型カーボン・プライシングを整備しその将来収入を充て2050年までに償還を終えること、③先行投資支援については、産業競争力強化・経済成長及び排出削減のいずれにも貢献するものから優先順位を付け支援すること、④カーボン・プライシングについては、直ちに導入するのではなく、GXに集中的に取り組む期間を設けた上で、当初は低い負担から始め、多排出企業を中心に産業競争力強化と効果的な排出削減が可能となる「排出量取引制度」とともに、広くGXへの動機付けが可能となるよう併せて「炭素に課する賦課金」も導入すること、とされています。

私は、日本でもついに本格的なカーボン・プライシングを導入することになるかと期待して政府の発表文書を読んだのですが、その内容は前記のとおり大変残念なものでした。

そもそも排出量取引制度や炭素税は、炭素の排出に価格付けすることにより、企業間の二酸化炭素の限界削減費用を均等化し、排出削減費用を社会全体で最小化するとともに、その価格以下の排出削減の自発的行動を促し、さらに二酸化炭素の多排出型産業構造を低炭素排出型のものに転換していくことも狙っています。

しかしながら、今回の構想は、参加も目標設定も企業の自主性に委ねられ、まずは経済成長や産業競争力の強化と排出削減策に資する投資に対し政府が補助し、将来その補助資金をカーボン・プライシングの収入で償還するという仕組みになっています。一言で言うと、カーボン・プライシングの持つ、市場原理を活用して、環境と経済の両立を図りダイナミックな構造改善を図るという、その理論的な利点をことごとく弱めるものとなっており、これでは2050年までの脱炭素の目標の達成は極めて難しいとの印象を持ちました。

この問題については、政府としても、もし実効性に問題があるようであれば制度の見直しも視野に入れる旨の、腰の引けた記述もありますので、一研究者として引き続き今後の推移を見ていきたいと思います。

「持続可能性とは何か」再考

私が昨年、定年退職した武蔵野大学では、「世界の幸せをカタチにする」という全学目標のもと、一昨年から、「SDGs基礎」と「SDGs発展」という科目が新設され、すべての学部新入生の必修授業となりました。ただし、その講義内容は、学部ごとに手探りしつつ始めざるを得なかったこともあり、基礎的な共通理解を持つべく、昨年来、『SDGsの基礎』(武蔵野大学教養教育部会編著、武蔵野大学出版会。2023年3月刊)のテキストの作成が進められました。その中で、私は「持続可能性とは何か」というパートを担当させていただき、これまで本誌でもたびたび言及してきた「強い持続可能性」と「弱い持続可能性」の考え方を紹介しつつ、持続可能性の問題を論じさせていただきました。その際、改めて痛感したのは、二つの考え方の背景には、自分自身も含めた私たちの自然との向き合い方や自然を巡る幸福感の違いがあることでした。

すなわち、強い持続可能性の考え方の根底には、自然を人間の文明の基盤と考え、自然に対する畏敬の念も含む自然への謙虚な姿勢がある一方で、弱い持続可能性の考え方の根底には、自然は人間の文明が利用し得る資本の一つに過ぎず、人間は自然を自由にコントロールする力があるという、自然に対する人間の能力への過信があると思われることでした。

文明の発展と人間の自然との向き合い方

そのような中、たまたま目に留まったイザベラ・バードの『日本紀行』(時岡敬子訳、講談社学術文庫)を読んで、文明の発展と人間の自然との向き合い方との関係について改めて考えさせられました。

バード女史は、明治維新直後の1878年4月に来日し、江戸から変わったばかりの東京から、日光、会津、新潟、山形などを経て、蝦夷のアイヌ部落である平取まで、通訳兼ガイドの伊藤鶴吉と2人で3ヵ月余をかけて踏破し、その見聞を詳細な紀行文として残しました。

江戸や明治初期における外国人による日本の滞在記は結構書かれており、私もこれまで何冊かは読んでいたのですが、バードのような、これまで西欧人が足を踏み入れなかった、都会を遠く離れた地域での、実体験に基づく率直な記録を読んだのは初めてでした。

バードはその中で、日本人の親切さ、勤勉さ、正直さ、子供への愛情の深さ、治安の良さ、欧米に引けを取らない自然の美しさなどに繰り返し言及していますが、他方で、宿屋の部屋におけるノミやダニ、シラミなどの害虫の不快さ、卵と魚以外の動物性タンパク質のない食事の味気無さ、庶民の衣類の貧しさ・不潔さ、さらには襖や障子で仕切られるプライバシーの無さなどにも言及しています。もちろん、この当時においても江戸と地方の生活の格差や貧富の格差はあったと思いますので、必ずしもそれらの記述を一般化すべきではありませんが、バードの記述は、外国人の視点からの日本観察記というよりも、私たち現代人の感覚で当時の地方の庶民の生活を見た記録に近いと私は感じました。

バードの紀行文の読後でも、現代の都市化の一層の進展、現代人の自然離れは、「強い持続可能性」の考え方を支持する基盤を失わせていくのではないかとの私の危惧は変わりませんでしたが、いくら身近な自然が大事といっても、ノミやシラミにたかられる生活は勘弁してほしいと率直に思いますし、江戸時代のように基本、肉のない食生活に戻るのもハードルが高いと感じます。

その意味では、より清潔で快適な、より豊かで幸福な生活を目指して人々が都市化を進め、結果として現代人の自然離れというような現象につながっていることは、それほど不自然なことではないと私も思います。

問題は、よく言われるように、いったんその「文明の発展」の方向が社会で常識化すると、「どこまで快適で便利な生活を求めるべきか」の限度が自分でもわからなくなることです。そして自分の行動自体が、国内の輸送や国境を超えた貿易などの現代の社会システムとも相まって、自然の劣化や減少につながっていることも実感できなくなってきていることです。

かつての人間の幸福感の一部は間違いなく自然と触れ合ってきたことだったと思います。バードも日本での過酷な旅の間でも、繰り返し日本の風土の美しさに触れた際の感動について述べています。しかしながら、現代では、それこそ自然との触れ合いよりもゲームなどの仮想空間での生きがいや感動を強く感じる人が出てきていてもおかしくありません。そのような人々がさらに大多数となれば、ある意味、費用負担などの痛みも伴う自然の保全を自分の幸福と結び付けられるような政治的なパワーが低下することを私は恐れます。

持続可能な発展に関しての私の主張は、「これまでは弱い持続可能な発展の考え方で文明は進んできたことは事実だが、地球の限界が見えてきた今、今後は強い持続可能性の考え方にシフトしよう」というものです。果たしてそれは可能なのでしょうか。

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