21世紀の新環境政策論~人間と地球のための持続可能な経済とは第46回 読み始めるのに気が重かった本~斎藤幸平著『人新世の「資本論」』

2021年03月15日グローバルネット2021年3月号

武蔵野大学教授、元環境省職員
一方井 誠治(いっかたい せいじ)

気候変動や生物多様性の減少をはじめとする地球環境問題は、解決のめどが立っているどころか、さらに悪化しているという憂慮すべき状況が続いています。

そのため、それを何とか食い止め、持続可能な発展の方向に社会を変えようという多くの提案がこれまでなされてきました。古くは、古典派経済学者のひとりであるJ.S.ミルが、すでに19世紀の半ばに将来における地球規模の自然破壊を予見し、そうなる前に未来の人びとが自ら定常経済へ移行することを勧めています。また、第2次大戦後の経済成長さなかの1972年に発表されたローマクラブの「成長の限界」は、未来への警鐘として大きな反響を呼び、その後も多くの識者により現代の社会経済システムの問題が指摘され、その改善のための処方箋が書かれてきました。

その中で、ミルと同時代のプロイセン王国の学者カール・マルクスが書いた「資本論」は、化石燃料の使用の開始と産業革命後の急速な経済成長の問題点を、労働者と資本家との関係から鋭く分析し、その理論的な解決の方策として、労働者を中心とする社会主義革命を経て新たな国家を打ち立てることを提唱したとされてきました。それがソビエトや中国といった共産主義国家の誕生につながり、そこでは、資本主義経済で起こる公害問題や格差問題は起こり得ないとの理想国家の姿が語られました。

しかしながら、ソビエトや中国における公害・環境問題の発生に加え、1991年のソビエト崩壊を経て、一党独裁の共産主義よりも、市場経済と民主主義をベースとする資本主義の方が優位な社会システムであるという世界的な認識が広がってきたように思います。

そのような状況の中、マルクスの資本論研究者で、経済思想・社会思想の専門家である斎藤幸平氏が、「脱成長のコミュニズム」こそ、潤沢な脱成長経済であり、気候変動、コロナ禍などの文明崩壊の危機の唯一の解決策であるとの主張を展開した本を出版しました。何故、今さら共産主義なのかという思いと、やはりそこまで踏み込まないと今日の持続可能性の危機は解決できないのかという思いが交錯し、読みたいものの一方で気が重いという複雑な気持ちになったのが正直なところでした。

私が理解した本書の主張

そのような気持ちを持ちつつも、ようやく本書を読み、私なりに解釈し理解したその内容を、やや乱暴にまとめると以下のとおりです。

気候危機はすでに始まっており、以前の状態に戻れなくなる地点は、すぐそこに迫っている。その危機は、現在の世界の経済システムと密接に関係している。

その中心にあるのが、資本主義のシステムである。

資本主義は利益を求めて常に、問題の外部化と転嫁、自然と労働からの収奪により、拡大を志向するという本質的な性格を有するので、それを、資本主義の枠組みを維持しつつ段階的、部分的に改善しようとすることは不可能である。

マルクスの資本論は、資本主義の暴走が社会の格差を広げる結果、恐慌と失業が起こり、それが社会主義革命をもたらし、資本を管理する主体が、資本家から労働者に代わることで、共産主義社会が実現する理論と一般に理解されているが、それは正しくない。

マルクスの残した研究ノートを詳しく分析すると、晩年の彼は、単に資本主義で行われていた資本の管理が資本家から労働者に代わるという単純な考え方ではなく、資本主義のシステムに代わるエコロジカルな持続可能性を重視した新たなコモンズ的な共同管理のシステムを構想していることがわかる。

そこでは、自然資本を含む公共的な資本は、私的な所有ではなく地域に根差したコモンズ的な非営利で平等な共同組合等により管理される。これが持続可能な脱成長コミュニズムである。

資本主義では私財が希少性を生み、富の増大には経済成長を必要とするが、脱成長コミュニズムでは共有財である公富の増大が潤沢性を生み、社会は経済成長に依存せず、より安定し豊かになる。

そのような社会システムに移行するための方策としては以下の五つが重要である。

・使用価値経済への転換
・労働時間の短縮
・画一的な分業の廃止
・生産過程の民主化
・エッセンシャル・ワークの重視

本書が主張する私たちがなすべきこと

上記の諸点について、以下に若干の説明を付したいと思います。

「使用価値の経済への転換」や「労働時間の短縮」は、『新しい豊かさの経済学』を書いたジュリエット・ショアがその著書の中で提唱している「真の物質主義」や「市場から距離を置く」概念と似たところがありますが、具体的なところでは違いも見られます。例えば、ショアは、「真の物質主義」は消費者が自ら志向していくべきものとしているのに対し、本書では、「生産を社会的な計画の下に置く」としています。また、「生産過程の民主化」では、「製薬会社やGAFAのような一部の企業だけに莫大な利益をもたらす知的財産権やプラットフォームの独占は禁止される」としています。この辺りのアプローチはかなり異なります。

「画一的な分業の廃止」は興味深い提案ですが、ここでは、「人間らしい労働を取り戻すべく画一的な分業をやめれば、経済成長のための効率化は最優先事項ではなくなる」としています。

最後の「エッセンシャル・ワーク」の重視では、ケア労働などの、オートメーション化やAI化には明確な限界がある労働集約型産業の重要性が語られ、その対極概念である「ブルシット・ジョブ(意味のない仕事)」が言及されています。このような職業の例として、「マーケティングや広告、コンサルティング、そして金融業や保険業など」が挙げられています。

社会システムの転換は可能か

本書を通読した私の感想は以下のとおりです。

本書前半の資本主義がいかにして環境の悪化と格差の拡大をもたらすか、また、その両者に密接な関係があるという面での分析は、従来の類書以上に切れ味が鋭いと感じた。また、持続可能性の観点から決定的に重要であるプラネタリー・バウンダリーの考え方を重視しており、その意味では、いわゆる「強い持続可能性」の考え方に立っていることは好感が持てた。

マルクスの資本主義批判は、第1巻刊行後に続巻を完成させようとする苦闘の中でさらに深まっていったこと、そして、「持続可能性」と「社会的平等」とは密接に関係があるのではないかと真剣に考えるようになり、「持続可能なコミュニズム」への理論的な大転換を遂げていったとするくだりは、かなりの説得力があり、共感するところも多かった。

違和感が残るとすれば、あえて資本主義とコミュニズムを対比させ、米国の経済学者ジョセフ・スティグリッツがその著『プログレッシブキャピタリズム』で主張しているような、民主的な投票により法制度を改革し「進歩的な資本主義」を実現することは絶対に不可能であると断定している点である。斎藤氏自身は、企業や社会の在り方についての大きな変革を、社会主義革命そのものではなく、「民主主義の刷新」により果たしていくとしているが、実現困難なことは承知の上で正しいと信ずることを誠実に主張しているという点で、スティグリッツと斎藤氏の主張の姿勢はアプローチの方法こそ違えど、それほど変わらないと感じた。

マルクスが注目したコモンズの社会システムは、日本の江戸時代の社会システムにも、また、持続可能な発展に関する近年の欧州連合(EU)の政策にも通じるところがあり、今後、コモンズの現代への適用可能性などについてさらに追究する必要がある。

なお、上記に関連し、来月号の本誌において、EUの社会経済委員会のユニット長であるエリック・ポンテウ博士の近著『気候危機 民主主義とガバナンス』を、立命館大学の稲澤泉教授に紹介していただく予定にしています。

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