フォーラム随想準備なくして成功なし

2021年07月15日グローバルネット2021年7月号

(一財)地球・人間環境フォーラム 理事長
炭谷 茂(すみたに しげる)

「早く来て!」

妻の叫び声が台所から聞こえてきた。炎がガスレンジから猛烈に立ち上がっていた。

山陰の知り合いがのどぐろの干物を送ってくれた。旬の時期でたっぷりと脂が乗っていた。焼いているときにレンジの底にある受け皿に脂が落ち、たまった油に引火したのだ。

天ぷら油に火が入ってパニックになることをよく聞いていた。その時の心得として絶対に水をかけないこと、鍋のふたか、ぬれタオルで覆い、空気を遮断して消火することは、よくわかっていた。

そこで手元にあったフライパンや鍋のふたを炎にかぶせた。これで炎は、上部には舞い上がることは防げたが、レンジの隙間から空気が流入するので、火の勢いが収まらない。

妻にたくさんのタオルをぬらして持って来させ、次々に魚の乗った網にかぶせ、鎮火させた。

実は、この時もう一つ厄介なことが起きていた。こちらの方は、普段から想定していなかった。

部屋に充満した煙のためにマンションに備えられた火災警報器が作動してしまったのだ。

「火事です。火事です」と機械音が叫ぶ。火よりもこの声によってパニックになりそうで、「うるさい」と怒鳴りたくなる。

火は抑えられたが、警報器の止め方がわからない。説明書を読んだことはなかった。

警報盤には「2分以内に止めないと、外部に通報されます」と表示が出てくる。何とか早く警報を止めなくてはと焦ってしまう。

多分これだろうと、停止というボタンを「えいや」と押すとぴたりと静寂さが戻った。

一件落着である。

 

このような「事件」は、どこの家庭にも起きるのだろう。普段から想定して準備しておけば、何ということはない。

今回の反省は、一つは重い消火器を玄関に置いていたことだ。しかし火災の心配は、台所が一番である。すぐに使える小型の消火器を台所に置かなければと、大型ディスカウントショップには手頃な価格で売っていた。

もう一つは、マンションの設備の説明書を読み返し、頭に入れて置かなければならかったことだ。

「警報装置など自分には関係ない」と甘く見てはいけない。

やはり普段からの準備が肝要だ。

昔の家庭では母親から教えられた。しかし、世帯単位が小さくなって経験の承継の機会が減ってしまった。自分で学んで常に準備しなければならない。

 

私は、小さい頃から何事でも準備を徹底的に行う方だった。遠足があるときは、相当前から目的地のことを調べ、携帯荷物を用意していた。手助けしてくれる人はおらず、独力ですべてやらなければと思っていた。

また他人と比べて能力が落ちると自覚していたので、時間を十分に取って準備しておかなければ、うまくいかないとも思っていた。実際そうだった。

実力者は、いつも大物のように「何でもどんとこい」と悠然と構えていた。それを見るたびに「自分は小物だ」と思い知らされた。

学校の勉強の方法にもよく表れていた。十分に予習をして臨まなければ、授業の内容が完全には吸収できなかった。

試験でもヤマを張るのではなく、他人よりも時間をかけて満遍なく勉強して臨んだ。要領が本当に悪かった。

秀才の同級生は、学校の勉強よりも普段からスポーツや楽器演奏などに熱中し、クラスの人気者だった。試験前でも余裕しゃくしゃくで勉強をしているそぶりはなかったが、私よりも成績は、上回っていた。持って生まれたものが違うと思い知らされたものだ。

しかし長い人生経験の結論は、自分が愚直にやってきたように何事も準備が最も大切だということだ。孫子の兵法の要諦も、徹底した準備にあるのだ。

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