INSIDE CHINA 現地滞在レポート~内側から見た中国最新環境事情第68回 中国の環境政策の回顧(1)~「先に汚染、後から対策」の時代

2021年10月15日グローバルネット2021年10月号

地球環境戦略研究機関(IGES)北京事務所長
小柳 秀明(こやなぎ ひであき)

2010年4月から隔月で本連載を開始し、中国の内側から見るという視点で最新の動きや環境事情を報告してきた。振り返ると、この10年余りの間にさまざまな面で中国は大きく飛躍した。かつて鄧小平は「三歩走」と呼ばれる21世紀中葉までの三段階の発展戦略を提唱したが、環境政策や対策もこれに呼応するように飛躍的に発展してきた。もはや一昔前の立ち遅れた中国の面影はない。半世紀前、世界の国々は「日本の公害経験」に注目したが、今では「中国の公害経験」の観察が主流になってきている。

今回から数回に分けて、中国の環境政策と対策の歴史を回顧してみたい。第1回目は文化大革命の時代から21世紀初頭まで、「先に汚染、後から対策」と呼ばれた時代を回顧する。

環境問題への覚醒

1972年、スウェーデンのストックホルムで国連人間環境会議が開催された出来事はあまりにも有名である。毛沢東主導の文化大革命の真っただ中にあった中国もこの会議に代表団を送ったが、その後この会議に刺激されて、翌年8月に周恩来国務院総理が出席、主導して、初めての全国環境保護会議を開催した。約半月間にもわたって開催されたこの会議の最大の功績は、中国の環境問題が深刻であることを国内に広く知らしめ認識させたことといわれている。この会議の後に国務院(日本の内閣に相当)は環境保護指導者小グループ(注:環境保全関係閣僚級会議のような組織)を設置し、その下に弁公室(指導者小グループの指示を受けて実質業務を行う組織)を設けた。これは中央政府に初めて設けた環境保護組織であった。

環境政策の黎明期

文化大革命の時代を経て1978年から鄧小平主導による改革・開放政策が取られるようになったが、この頃からようやく中国の環境への取り組み、すなわち環境政策の萌芽が具体的に見え始めてくる。1978年に改定された中華人民共和国憲法第26条では「国家は生活環境と生態環境を保護および改善し、汚染およびその他の公害の防除と対策を行う」と明確に規定した。その後、1979年に環境保護法(試行)が制定され、1982年には海洋環境保護法が制定・施行された。第1回開催から10年後の1983年に開かれた第2回全国環境保護会議では、環境保護が国家の基本国策として明確化された(しかし、法律に明記されるのは2015年に施行された改正環境保護法まで待たなければならなかった)。

1984年には中央政府の組織として国家環境保護局が設立され、同年の水汚染防止法の施行、1987年の大気汚染防止法の施行、1989年の環境保護法の本格施行などを経て、徐々に環境政策体系が整備された。また、1998年には国家環境保護局が国務院主管の環境保護活動を展開する直属機構として国家環境保護総局に昇格し(日本の旧環境庁に相当する組織。総局長は大臣級)、中国の環境保護活動に対する統一的な監督・管理に責任を負うこととなった。

 

1990年代の貴州省貴陽製鉄工場(奥側、手前は小学校)
後に円借款で対策を講じた(写真提供:貴陽製鉄工場)

5ヵ年計画による対応の開始

1949年に中華人民共和国が成立すると、1953年から5ヵ年計画方式による社会主義国家建設が始まるが、この5ヵ年計画の中で環境問題への具体的取り組みが見えてくるのは第9次5ヵ年計画(1996~2000年)頃からである。第9次5ヵ年計画では初めて重点地域(流域)を指定しての環境汚染対策に取り組んだ。これは「3、3、2、1、1」対策ともいわれたが、具体的には「3つの河(淮(ワイ河、遼河、海河)」、「3つの湖(太湖、デン池、巣湖)」、「2つの規制区(二酸化硫黄規制区、酸性雨規制区)」、「1つの市(北京市)」、「1つの海(渤海)」を全国の環境汚染対策の重点地域(流域)としたものである。このうち、「3つの河」と「3つの湖」は、重点流域の水質汚染防止を目指したもので、国は各流域で「重点流域水質汚染防止第9次5ヵ年計画」を制定し、1996年に改正した水汚染防止法で導入した汚染物質総量規制などを実行した。

第9次5ヵ年計画期間中の国内総生産が年平均8.3%成長する中、2000年の全国の二酸化硫黄、ばい煙、工業ばいじん、排水中の化学的酸素要求量、石油類、重金属など12項目の主な汚染物質の排出総量は、第8次5ヵ年計画末期に比べてそれぞれ10~15%減少したと当時評価されたが、後に国家環境保護総局の担当者によれば、当初の総量規制のベースライン設定が甘かったとしている。すなわち、実質的には大して削減されていなかった。

第10次5ヵ年計画(2001~2005年)では、国家環境保護総局により初めて環境保護分野全般に特化した国家環境保護第10次5ヵ年計画が制定された。この計画では、汚染物質排出総量規制を主軸とし、上述の「3河3湖2区1市1海」など重点地域の環境汚染と人為的な生態系破壊の抑制が重点とされた。具体的には、①2005年に二酸化硫黄、粒子状物質(ばい煙と工業ばいじん)、化学的酸素要求量、アンモニア、工業固体廃棄物など主な汚染物質の排出量を2000年に比べ10%減少させる、②酸性雨規制区と二酸化硫黄規制区で二酸化硫黄排出量を2000年と比べて20%削減する、などの数値目標も掲げられたが、幾つかの指標については目標を達成できなかった。とくに、二酸化硫黄排出量は28%増加するという真逆の結果であった。

産業構造の調整と淘汰政策

産業構造の調整と立ち遅れた企業の淘汰は、1990年代以降取られた中国の特徴的な政策の一つである。2006年に初めて発表された「中国環境保護(1996~2005)白書」によれば、深刻な汚染源となっている工業汚染への対策を徹底するため、第9次5ヵ年計画期間中に資源を浪費しており環境汚染が深刻な小企業8万4,000社余を閉鎖し、2001~2004年には生産能力、プロセス、製品が立ち遅れている企業の淘汰リストを公布し、資源の浪費、汚染が深刻な企業3万社余を淘汰するとともに、資源浪費が多く、環境汚染が激しい鉄鋼、セメント、アルミニウム、鉄合金、カーバイド、コークス製造など8つの汚染がとくに深刻な業界に対して整理を行い、1,900件以上のプロジェクトについて建設の停止または延期を命じている。2005年には汚染が深刻で産業政策に合致していない鉄鋼、セメント、コークス、製紙などの企業2,600社余を操業停止にするなどの強い措置も講じてきた。

先に汚染、後から対策

上述のように1980年代以降環境保全組織と環境関連法制度が徐々に整備され、対策も実行されてきたが、法律の規定が抽象的で具体的な施行方法が明確でなかったこと、行政官の法執行能力の不足、モニタリング技術・設備など法執行を支える環境インフラの不足などにより、今の時代に見ても先進的と思われる法律規定の内容(例えば、環境影響評価の前身制度、汚染物質排出賦課金(後の環境保護税)の徴収制度、汚染物質排出許可管理制度など)があったにもかかわらず、これらが十分に生かされなかった。また、企業側から見ると、罰金を払えば汚染物質の継続排出が黙認されるような仕組み、行政の目を逃れた違法排出、さらには各地方の幹部が経済発展を優先し、環境対策は後回しにしてきた結果、「先汚染後治理(先に汚染、後から対策)」という言葉に代表される汚染者天国の時代が長く続くことになった。筆者が「中国は環境問題のデパート」と呼んだ時代である。

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